幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
4
 暗い視界の先に一点の光が見えた。
 アロンとエステルは目線を交わして微笑みあう。ブロックの通路を踏む足取りも軽やかになり、すぐ脇を流れる排水のせせらぎを追い越さんばかりに早まる。
 どこか湿っぽい空気にも乾いた風が差し込んでいる。頬を撫でる気流が実際の温度よりも冷たく感じられたけれども、かえって開放感が爽快なくらいだった。

 半日も闇の中を歩き続けたから正午も近いはず。ようやくにしてほの暗い洞窟から地表へ。アロンとエステルは新鮮な外気を吸い込んだ。

 もう出口近くに差しかかり、昼のオーロラの輝きは二つの人影を照らし出している。

「あれ?」

 ふとエステルを省みたアロンは驚きの声を上げる。

「どうしたんですか?」

「お前、その格好……」

「格好?」

 娘は自分の体を見て、ギョッとする。

 服はボロボロであちこち虫食いになっている。黴臭くて少し腕を上げただけで脇下の縫合が切れてしまう。それどころか今なお劣化していっているようだった。見苦しく変色してボロ同然になってしまう(腕や足の金属の装身具は無事だったのだが)。

 まるで百年もの経年劣化に曝されたかのように。

「排水の蒸気のせいでしょうか?」

「……でも俺の服はなんともないぞ?」

 アロンは自分の服の生地を引っ張ってみる。エステルが真似すると、彼女の服の裾はあっさりと千切れて粉のようになってしまう。

 いきなり、エステルの足を黒い風が攫う。

「あッ!」

 体勢を崩しかかったエステルの細い体が流れにくず折れそうになる。押し返すみたいに強い風が吹き込み、少女はさらによろける。暗い水の流れの中で何かが蠢いたようだった。

 あいにくアロンの手はしっかりとエステルの腕を捕まえていた。

「しっかりしろ、危ない」

「は、はい!」

 エステルはどうにかアロンの腕に取り縋った。

 アロンは不可解な力に抗いながら、エステルを抱きかかえるようにして闇を脱した。

 暗がりから白乳色の光の世界に出ると、それだけで安心感が得られるものらしい。

「エステル。大丈夫か? それとも具合でも……」

 エステルはまだ得体の知れない戦慄に青ざめ震えている。それでもどうにか口を開いた。

「……因果なものですわ」

「因果?」

「覚えていらっしゃるでしょう。ほら」

 二人が地上に現われ出たのは、最初の出会いのあの湖畔付近だった。

「そうだったな。あの晩、この辺りで……あの排水は、この湖に流れてたのか?」

「ええ。水に落ちたら本当に危ないところでした。出口付近では濃くなりますし、この辺りでも、もうかなりの酸性のはずです」

「あれは?」

 周囲を見渡していたアロンが石碑を目に留める。

 死の湖のほとり、砂雪に生えた鉱物樹に混じって黒い立石が存在していた。

「あんなもの、来たときにあったか? それとも見落としたのか」

 アロンがエステルの顔に目を当てたのは、何か知っているのでないかと思ったからだ。

「わたしも聞いたことがありません。こんなところに記念碑だなんて」

 近寄ってみれば慰霊のためのものであるらしい。

 アロンは驚きの声を上げた。

「『入水した娘』?」

「でも、まさか……」

 エステルはぞっとしながら喉を震わせる。

「だけどこの年号……狼の暦だと、今年よりも新しくないか? 十年くらい……」

 それは大きな内戦の直後に建立されたのだそうだ。

 婚約者の横死で気落ちした狼の娘がここで身投げをした。

 娘の怨霊は大きな狼になって化けて出、夜な夜な村人を食い殺したそうな。

「どうなってるんだ?」

「わかりません」

 答えるエステルはほとんど裸同然。そのくせ衣服の破れ目から見える肌はいっかな、老いたり壊れたりする気配もない。アロンは脱いだ自分の上着をかした。

「……あ! アロンさん! あれっ!」

 口を噤んで目を彷徨わせていたエステルが、アロンの右後ろを指差す。袖が破れるのも構わずに。それは驚きの声だった。

 彼方、狼たちの城ホラーサーン。その外市を囲む外壁はあちこち崩れている。

 アロンもまた不可解さに目を瞬く。

 自分が西からやって来て入ったとき、城壁はあんなふうにあちこち破れてはいなかったのだ。目を凝らしていたとき、エステルが小さな声を上げる。

「アロンさん……」

 振り返る。

 エステルは儚く手を差し伸べていた。

 その手の上には白い結晶があった。

「それは……」

「あのエメラルドです。アイザックにもらった……」

 それは塩のような灰の塊になっていた。

 まだ所々に緑色の部分が残っていたが、それも急速に変化していく。全てが塩のような粉になって風化し、吹き散らされるみたいに消えてなくなってしまう。

「ああそうか!」

 アロンは大声で笑い出しそうに言った。

「?」

「俺たちは『幽霊の国』にいたのさ。『紅い花』が再現した、百五十年前の世界に迷い込んでいたんだ」

 顔の赤いエステルは手でたわわな胸を隠して眉をひそめる。

「え? バカなこといわないで下さいよ! 百年前なんて!」

 だんだんにエステルの語気が強まる。

 なにせ自分自身のことである。

 しかもあられもない格好のせいで恥ずかしく、頭がカンカンになってしまっていた。

「だ、だったら、わたしはどうなるんですか! あそこで二十年近く生活してたんですよ! 幽霊? そんなはずないじゃないですか! 人を得たいの知れない化け物みたいに!」

 しかしアロンはエステルに答えた。

「…………さしづめ、『眠り姫』ってところじゃないのか? たぶんお前が持ってた、その特別なエメラルドのせいだと思う……けど……」

「…………」

 二人はずいぶん長い間、狐に摘まれた様子で互いに見つめ合った。


5
 試みに街に戻ってみれば、やっぱり外市は大きく様変わりしていた。

 かつての内市に至っては紅い花の園になり、とても立ち入ることのできない、それこそ「いばらのお城」であった(幽霊が出ると怖がられているらしい)。

 そして生き残っていた住民と、狼の末裔たちはほそぼそと生活を営んでいる。

 残念ながらエステルの見知った人物は誰一人としていなかった。

 はたしてアロンの予測のとおりだったようだ。

 人々の話を総合すれば、歴史の経緯は次の通りになる。

 百五十年前の昔、藩王の悪政を見かねた太子の一派が、僧院の助けをかりてクーデターを起こした。騒ぎが予想以上に拡大して内市全体が戦火に包まれたため、外市への飛び火を恐れた聖職者たちが内市の封鎖を決意。
 その際に「魔法で結界を張った」といわれている。事前にそのことを知らされていた太子一派は外市に避難し、その末裔は今でも防衛面での役割を担っていた(当時の太子ホスローの、ひ孫殿下が現在の「総督」を務めていた)。

 総督にアウストラシアから携えた親書(予備)を手渡し、会談すること一ヶ月。

 国交再開の準備交渉は無事にまとまった。



6
 一ヵ月後の帰路の旅立ち、青銅の蛇がからんだ金十字架の噴水の傍ら。

「これから……」

「これからは『お姫様』って呼んで欲しいわね……わたしのご王子様」

 旅装したエステルはアロンに甘えかかって他愛もない文句をいった。

 紅い花は幸せな永遠を夢に見ている。
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