幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
3
紅い花を見つけたのは、とても幸運とはいいがたかった。
荒涼とした老朽化した建造物の群れを通り過ぎて、ゴミ捨て場の縁に咲いていた。おまけに傍らでは薄汚れた少年が倒れていた。
『紅い花は夢を見ている』
少年のまどろむような眼差しは一心にその赤い燐光に注がれていた。願でもかけるような思いつめた目つきは痛々しい。
『鋭い刺に守られながら、幸福な眠りを貪っているのだ』
忘我の境にいる様子。なぜそんなにも熱っぽいのか? ここではないどこかにいるのだろうか? 言葉にならない祈りでも捧げているというのか?
『幻は消え去ったもの、失ったものを蘇らせるであろう』
白いシャツは比較的新しいながらも、じっとりと汗ばんでいるようだった。
「ちょっと、あなた……」
びっくりして抱き起こすと、ひどい熱である。少年は薄目を開け、驚いたみたいに目を見開いた。エステルは左肘の内側で枕して少年の頭を支えてやった。
「あなた。どうして、こんな……」
「捨てられた」
「捨てられたって……」
少年のか細い答えにエステルは絶句し、右手で口元を覆った。
「病気でもう使えないから、いらないって」
エステルはよくは知らなかったが、平民同士でも階級差別があるらしかった。どこだってそんなものなのだろう。
少年はエステルの顔を魅入られたように見つめている。やがて彼はたずねた。
「……神さま?」
唐突な問いかけにエステルは返答に困ってしまう。肩を指でつよく握ってしまう。一呼吸思案してから言った。
「しっかりして。あなた、まだ死んでないわ」
愛しい感情は先天的な習性のせいなのだろうか。そもそも優生種は平民種を「保護」するために造られた。ゆえに元は平民種に愛情を抱くことも少なくなかったし、相手が子どもならなおさらだ。現在に至っても、特に女性にはまだその性向は根強く残っており、幼子の名付け親になって「氏子」にする風習さえある。
エステルは胸に優しい感情がこみ上げる。
「ほら、きれいにしてあげるから」
ハンケチで顔を拭ってやると、思いの他かわいらしい顔立ちだった。
てのひらで触れると少年の額はやっぱりずいぶん熱い。高熱だった。
(そういえば、伯爵夫人がお小姓を欲しがっていたっけ?)
少年は熱に浮かされた視線で、じいっとエステルを見つめる。神秘主義者の恍惚とした瞑想に似ていただろうか?
「……神さまじゃ、ないの?」
エステルはどきりとし、小さく唾を飲み込んだ。
どこか責められている気がしたのだ。
瀕死の少年が取りすがるように両腕でしがみついてくる、痛いほどに。まるで溺れた人か、せっぱつまった亡者のようだった。
乗り移ったとでもいうのか、「彼」が。
戦慄にもかかわらず、エステルはとっさに少年を抱き寄せていた。
「違うわ。わたしは、そんな……」
すると少年は弱々しく言葉を返した。
「神さまじゃなくってよかった」
「どうして?」
「だって、神さまだったら……こんなふうに優しくなんてしてくれないでしょ?」
「そんなこと! 罰当たりだわ。天国に行けるようにお祈りでもしたら?」
「天国なんて、いらないもの。そんなの無くたってかまわない」
「……そんなこと、言うもんじゃないわ」
4
外市の一角の施療院に運び込んで四時間後。ベッドの上で少年は息を引き取った。
エステルがそのことを知ったのは、内市の開門に合わせて帰ろうとしていたときだった。
「亡くなりましたよ、あの子」
背後から知らされたその瞬間に、体重がゆうに二三キロくらい蒸発した。精神の中心軸がポンとどこかへ飛んでしまう。とうに涙も枯れているらしく、かえって乾いた笑いがおなかの底からふつふつとこみ上げてくる。
エステルは憔悴し、やつれきった無邪気な笑みを浮かべた。
「死人にくちなしだよ?」
せめてものはなむけに。
顔の白布をとり、今度は優しく、事切れた少年のおでこに唇を押し当てる。
紅い花は遺骸の胸元に置き去りにした。
エステルがようやく屋敷に戻ったときには、とうに夜も更けていた。
5
エステルの母親は早くに亡くなっていた。父親の伯爵もめったとやってこない。他所に別の家庭を持っている。エステルは妾腹の娘なのだ。気丈な見せかけは孤独と寂しさの裏返しだった。
またベッドに入ってもなかなか寝つかれない。
お酒など一滴も飲んでいないのに、まるで悪酔いしたように気分が優れない。意識がはっきりとはしないくせに、安楽のまどろみには遠いのだ。めまいがするようだった。
寝返りをうちながら、どれくらい経ったろうか。
ベッドのカーテンの向こうに、曖昧な気配が漂っている。
エステルは急に寒気がした。悪寒、わけもわからず怖くなったのだ。肌が泡立っていくのを覚えた。冷気のようなものが伝わってくる。からだは半分眠っているようで、うまく動かせない。それでも薄目を開けて、横になったままで窺うことはできた。
カーテンの向こう。すきまに何か、人のような影。
どうやら昨晩に外市で看取った、あの哀れな少年の幽霊だった。
半透明に淡く光っている。けれども表情には微塵も悪意はみられない。どこか懐かしげで愛しそうな眼差しで眺めている。
(あなた、わざわざ会いにきたの? ……わたしはとっくに疲れてるのよ。それとも「そっち」へ、つれってってくれる?)
実感が湧かないエステルは心の中で問いかける。実感と現実味がない。けれども少年はかすかに頷いたようだった。
(ありがとうって、お礼に……)
頭の中で風鈴のような声が囁く。
(会わせてあげる)
嘘を吐いているようには感じられない。それにどうせこれは夢なのだ。
エステルは少年が差し伸べた手を静かに握った。
美しい銀髪の髪が膨らんで伸び足元にまで流れる。まるで白亜に輝く炎がパチパチと全身を包み込んでいくようだった。
束の間の鮮やかな変身。エステルは遠い先祖のように、「狼」の姿になっていた。
どうしたわけか、はるか昔に失われたはずの力が彼女の中に満ちていたのだ。
6
夜の闇を、ひとっとびに駆け抜けていく。
常識的にありえない軽やかさで、壁の狭間、石畳の上を駆けていく。
緑の釉薬を塗った瓦の海原を、往古のイルカのように乗り越えていく。
威容ある二重の西の城壁も、するりと上って難なくのりこえてしまう。
夢だろうか? きっとそうだ。
胸にいぶかしむうちに、湖のほとりに立っていた。
まるで炎が風に吹き払われるように、白い毛並みが空気に溶けて消えてしまう。
7
暗い白乳色の天には銀色の綾、夜のオーロラが揺らめいていた。金属結晶の木々は、きらきらと幻想的な光にあやどられている。
足元には境界に咲く青い花が一面に咲き誇っている。
少年の幽霊は優しげな半透明の笑顔で、エステルに指で指し示した。
(え?)
湖の穏やかな波上に「彼」がいた。少年と同じように光の透ける姿で。他にも人影のようなものがちらほらと踊っているようだった。さっきの舞踏会のように。
エステルは顔を輝かせた。
「………!」
ふらりと足を運ぶ。永久に融けない雪、白い結晶の砂を踏みしめて。
泳いででもいける距離だ。
エステルは心を躍らせて、波打ち際に踏み入ろうとする。
「会いたかった!」
夢遊病のふらつく足取りが輝く砂のぬかるみに囚われていく。
「わたしも! すぐにいくからっ! すぐに……」
エステルにとって、唯一の心の頼みが彼だった。一緒に幸福な家庭を築くことを夢に見ていた。その結婚話は母親が生前にまとめてくれたもので、彼は単に恋人であるだけでなく、家族でさえあった。気まぐれな恋慕とは愛情や執着の深さがどだい違う。
それに母のように惨めな境遇にはなりたくなかった。立派になった婿をもらえば、母もきっと草葉の陰に喜んでくれるだろうと。孫を抱かせてやることはできずとも、もしも娘が生まれたら、せめて母の名をつけようなどと空想したものだ。そうして自分たち母子を厄介もの扱いした父親を見返してやりたいと思っていた。
でもそんな夢も潰えたのだ。生きている甲斐もない。
だったら一緒に連れて行って欲しい。あのさざめく水面の彼方へ行ってしまおう。
「待ってて! すぐにっ」
エステルはよろめきながら足を踏み出す。
そのとき誰かが邪魔をした。腕をとられ、ぐいっと陸に引き戻されたのだ。
湖に入ろうとして、直前に引き止められてしまう。
「おい!」
男の人の声。乱暴に袖口を捕まえられ、ふと顔を上げてみる。見たことのない容姿の青年が立っていた。格好からして、旅人らしい。それに目が銀色?
「あなたは……その……」
エステルは当惑し、彼の顔をまじまじと見つめる。かなりの美男子ではある。
疑問が湧く。身体的特徴は、彼が何らかの優生種であることを示している。けれども銀の瞳など聞いたことがない。西方を治める「龍」は金色の目をしているというけれど。
アロンは呆れたように言った。
「あんた、死にたいのか?」
「え?」
エステルはそのとき、ようやく自分の足元で起きている異変を悟る。
なめし革の部屋履きはつま先が溶けだし、細い白煙を上げている。慌てて波打ち際から飛びのいたが、室内靴はもう駄目になってしまったらしい。こころなしか足の裏までひりひりしてきそうだった。……この美しい湖は腐食性の死の湖だったのだ。だから周囲を青い花で囲み、彼岸へと封じ込めている。
(そんな……わたしをつれていこうとしたの?)
エステルは動悸の高まりに苦しくなり、膝が震えはじめる。
あの少年も「彼」も、幽霊たちはとっくに消えうせてしまっていた。
「それとも自殺でも?」
アロンの問いかけに、エステルはすまし顔で首を左右させる。
「ちょっと夕涼みに。……それで寝ぼけたみたいなんです」
「寝ぼけた?」
怪訝そうに髪を掻くアロン。エステルは凛として問いかけた。
「あなたは?」
「俺はアウストラシアのアロン。西から東方の探索に来た。……あんた、『狼』だろ? 街まで案内してくれないか? 親書を預かっているんだ」
エステルははっきりしない意識ながら、しばし思案してから答えた。
「町の城門は昼間しか空きません……朝になったら外市のどこかに、いったん宿をとられてはいかがです?」
ボロボロになった部屋履きを脱ぎ捨て、困ったように残骸を見つめる娘。ハンケチを巻こうにも、ちょうど持ち合わせがなかった。
「よろしく頼むよ。ちょっとこっから離れよう……あんたは?」
名を聞かれたのだと悟り、エステルは答えた。
「わたしはエステルです。『狼』の伯爵の庶子で、今は内市に住んでいます」
紅い花を見つけたのは、とても幸運とはいいがたかった。
荒涼とした老朽化した建造物の群れを通り過ぎて、ゴミ捨て場の縁に咲いていた。おまけに傍らでは薄汚れた少年が倒れていた。
『紅い花は夢を見ている』
少年のまどろむような眼差しは一心にその赤い燐光に注がれていた。願でもかけるような思いつめた目つきは痛々しい。
『鋭い刺に守られながら、幸福な眠りを貪っているのだ』
忘我の境にいる様子。なぜそんなにも熱っぽいのか? ここではないどこかにいるのだろうか? 言葉にならない祈りでも捧げているというのか?
『幻は消え去ったもの、失ったものを蘇らせるであろう』
白いシャツは比較的新しいながらも、じっとりと汗ばんでいるようだった。
「ちょっと、あなた……」
びっくりして抱き起こすと、ひどい熱である。少年は薄目を開け、驚いたみたいに目を見開いた。エステルは左肘の内側で枕して少年の頭を支えてやった。
「あなた。どうして、こんな……」
「捨てられた」
「捨てられたって……」
少年のか細い答えにエステルは絶句し、右手で口元を覆った。
「病気でもう使えないから、いらないって」
エステルはよくは知らなかったが、平民同士でも階級差別があるらしかった。どこだってそんなものなのだろう。
少年はエステルの顔を魅入られたように見つめている。やがて彼はたずねた。
「……神さま?」
唐突な問いかけにエステルは返答に困ってしまう。肩を指でつよく握ってしまう。一呼吸思案してから言った。
「しっかりして。あなた、まだ死んでないわ」
愛しい感情は先天的な習性のせいなのだろうか。そもそも優生種は平民種を「保護」するために造られた。ゆえに元は平民種に愛情を抱くことも少なくなかったし、相手が子どもならなおさらだ。現在に至っても、特に女性にはまだその性向は根強く残っており、幼子の名付け親になって「氏子」にする風習さえある。
エステルは胸に優しい感情がこみ上げる。
「ほら、きれいにしてあげるから」
ハンケチで顔を拭ってやると、思いの他かわいらしい顔立ちだった。
てのひらで触れると少年の額はやっぱりずいぶん熱い。高熱だった。
(そういえば、伯爵夫人がお小姓を欲しがっていたっけ?)
少年は熱に浮かされた視線で、じいっとエステルを見つめる。神秘主義者の恍惚とした瞑想に似ていただろうか?
「……神さまじゃ、ないの?」
エステルはどきりとし、小さく唾を飲み込んだ。
どこか責められている気がしたのだ。
瀕死の少年が取りすがるように両腕でしがみついてくる、痛いほどに。まるで溺れた人か、せっぱつまった亡者のようだった。
乗り移ったとでもいうのか、「彼」が。
戦慄にもかかわらず、エステルはとっさに少年を抱き寄せていた。
「違うわ。わたしは、そんな……」
すると少年は弱々しく言葉を返した。
「神さまじゃなくってよかった」
「どうして?」
「だって、神さまだったら……こんなふうに優しくなんてしてくれないでしょ?」
「そんなこと! 罰当たりだわ。天国に行けるようにお祈りでもしたら?」
「天国なんて、いらないもの。そんなの無くたってかまわない」
「……そんなこと、言うもんじゃないわ」
4
外市の一角の施療院に運び込んで四時間後。ベッドの上で少年は息を引き取った。
エステルがそのことを知ったのは、内市の開門に合わせて帰ろうとしていたときだった。
「亡くなりましたよ、あの子」
背後から知らされたその瞬間に、体重がゆうに二三キロくらい蒸発した。精神の中心軸がポンとどこかへ飛んでしまう。とうに涙も枯れているらしく、かえって乾いた笑いがおなかの底からふつふつとこみ上げてくる。
エステルは憔悴し、やつれきった無邪気な笑みを浮かべた。
「死人にくちなしだよ?」
せめてものはなむけに。
顔の白布をとり、今度は優しく、事切れた少年のおでこに唇を押し当てる。
紅い花は遺骸の胸元に置き去りにした。
エステルがようやく屋敷に戻ったときには、とうに夜も更けていた。
5
エステルの母親は早くに亡くなっていた。父親の伯爵もめったとやってこない。他所に別の家庭を持っている。エステルは妾腹の娘なのだ。気丈な見せかけは孤独と寂しさの裏返しだった。
またベッドに入ってもなかなか寝つかれない。
お酒など一滴も飲んでいないのに、まるで悪酔いしたように気分が優れない。意識がはっきりとはしないくせに、安楽のまどろみには遠いのだ。めまいがするようだった。
寝返りをうちながら、どれくらい経ったろうか。
ベッドのカーテンの向こうに、曖昧な気配が漂っている。
エステルは急に寒気がした。悪寒、わけもわからず怖くなったのだ。肌が泡立っていくのを覚えた。冷気のようなものが伝わってくる。からだは半分眠っているようで、うまく動かせない。それでも薄目を開けて、横になったままで窺うことはできた。
カーテンの向こう。すきまに何か、人のような影。
どうやら昨晩に外市で看取った、あの哀れな少年の幽霊だった。
半透明に淡く光っている。けれども表情には微塵も悪意はみられない。どこか懐かしげで愛しそうな眼差しで眺めている。
(あなた、わざわざ会いにきたの? ……わたしはとっくに疲れてるのよ。それとも「そっち」へ、つれってってくれる?)
実感が湧かないエステルは心の中で問いかける。実感と現実味がない。けれども少年はかすかに頷いたようだった。
(ありがとうって、お礼に……)
頭の中で風鈴のような声が囁く。
(会わせてあげる)
嘘を吐いているようには感じられない。それにどうせこれは夢なのだ。
エステルは少年が差し伸べた手を静かに握った。
美しい銀髪の髪が膨らんで伸び足元にまで流れる。まるで白亜に輝く炎がパチパチと全身を包み込んでいくようだった。
束の間の鮮やかな変身。エステルは遠い先祖のように、「狼」の姿になっていた。
どうしたわけか、はるか昔に失われたはずの力が彼女の中に満ちていたのだ。
6
夜の闇を、ひとっとびに駆け抜けていく。
常識的にありえない軽やかさで、壁の狭間、石畳の上を駆けていく。
緑の釉薬を塗った瓦の海原を、往古のイルカのように乗り越えていく。
威容ある二重の西の城壁も、するりと上って難なくのりこえてしまう。
夢だろうか? きっとそうだ。
胸にいぶかしむうちに、湖のほとりに立っていた。
まるで炎が風に吹き払われるように、白い毛並みが空気に溶けて消えてしまう。
7
暗い白乳色の天には銀色の綾、夜のオーロラが揺らめいていた。金属結晶の木々は、きらきらと幻想的な光にあやどられている。
足元には境界に咲く青い花が一面に咲き誇っている。
少年の幽霊は優しげな半透明の笑顔で、エステルに指で指し示した。
(え?)
湖の穏やかな波上に「彼」がいた。少年と同じように光の透ける姿で。他にも人影のようなものがちらほらと踊っているようだった。さっきの舞踏会のように。
エステルは顔を輝かせた。
「………!」
ふらりと足を運ぶ。永久に融けない雪、白い結晶の砂を踏みしめて。
泳いででもいける距離だ。
エステルは心を躍らせて、波打ち際に踏み入ろうとする。
「会いたかった!」
夢遊病のふらつく足取りが輝く砂のぬかるみに囚われていく。
「わたしも! すぐにいくからっ! すぐに……」
エステルにとって、唯一の心の頼みが彼だった。一緒に幸福な家庭を築くことを夢に見ていた。その結婚話は母親が生前にまとめてくれたもので、彼は単に恋人であるだけでなく、家族でさえあった。気まぐれな恋慕とは愛情や執着の深さがどだい違う。
それに母のように惨めな境遇にはなりたくなかった。立派になった婿をもらえば、母もきっと草葉の陰に喜んでくれるだろうと。孫を抱かせてやることはできずとも、もしも娘が生まれたら、せめて母の名をつけようなどと空想したものだ。そうして自分たち母子を厄介もの扱いした父親を見返してやりたいと思っていた。
でもそんな夢も潰えたのだ。生きている甲斐もない。
だったら一緒に連れて行って欲しい。あのさざめく水面の彼方へ行ってしまおう。
「待ってて! すぐにっ」
エステルはよろめきながら足を踏み出す。
そのとき誰かが邪魔をした。腕をとられ、ぐいっと陸に引き戻されたのだ。
湖に入ろうとして、直前に引き止められてしまう。
「おい!」
男の人の声。乱暴に袖口を捕まえられ、ふと顔を上げてみる。見たことのない容姿の青年が立っていた。格好からして、旅人らしい。それに目が銀色?
「あなたは……その……」
エステルは当惑し、彼の顔をまじまじと見つめる。かなりの美男子ではある。
疑問が湧く。身体的特徴は、彼が何らかの優生種であることを示している。けれども銀の瞳など聞いたことがない。西方を治める「龍」は金色の目をしているというけれど。
アロンは呆れたように言った。
「あんた、死にたいのか?」
「え?」
エステルはそのとき、ようやく自分の足元で起きている異変を悟る。
なめし革の部屋履きはつま先が溶けだし、細い白煙を上げている。慌てて波打ち際から飛びのいたが、室内靴はもう駄目になってしまったらしい。こころなしか足の裏までひりひりしてきそうだった。……この美しい湖は腐食性の死の湖だったのだ。だから周囲を青い花で囲み、彼岸へと封じ込めている。
(そんな……わたしをつれていこうとしたの?)
エステルは動悸の高まりに苦しくなり、膝が震えはじめる。
あの少年も「彼」も、幽霊たちはとっくに消えうせてしまっていた。
「それとも自殺でも?」
アロンの問いかけに、エステルはすまし顔で首を左右させる。
「ちょっと夕涼みに。……それで寝ぼけたみたいなんです」
「寝ぼけた?」
怪訝そうに髪を掻くアロン。エステルは凛として問いかけた。
「あなたは?」
「俺はアウストラシアのアロン。西から東方の探索に来た。……あんた、『狼』だろ? 街まで案内してくれないか? 親書を預かっているんだ」
エステルははっきりしない意識ながら、しばし思案してから答えた。
「町の城門は昼間しか空きません……朝になったら外市のどこかに、いったん宿をとられてはいかがです?」
ボロボロになった部屋履きを脱ぎ捨て、困ったように残骸を見つめる娘。ハンケチを巻こうにも、ちょうど持ち合わせがなかった。
「よろしく頼むよ。ちょっとこっから離れよう……あんたは?」
名を聞かれたのだと悟り、エステルは答えた。
「わたしはエステルです。『狼』の伯爵の庶子で、今は内市に住んでいます」