幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
8
 まだずいぶん暗い地面に、数え切れない青い花が咲き誇っている。一つ一つの光は淡くて弱くとも、これだけの量が敷きつめられるとほのかな幻想的な明かりになる。

 今は夜空の星々ではなく、正反対にこの大地そのものが自ら光っている。

 惑星の生命活動と呼ばれる所以である。

 エステルが指の先でそっと触れる。すると白っぽくなりかけていた朽ちかけの花弁は、淡い燐光を残してパッとはじけて消えてしまう。儚いシャボン玉のように。

「それでは、ずっと西の方から来られたんですね」

 彼女は鉱物樹の根元に腰を下ろして、アロンの話に耳を傾けていた。

「そうなんだ。もう半年も歩いて」

 世界の大半は人間の生存を拒んでいる。同じ理由で城市間の移動に馬は使えない。遠方の町同士が連絡をとるには、優生種の使者が徒歩で往き来するしかないのだった。少なくとも昔はそうだった。……この閉鎖的な狼の都ではとうに廃れた風習だ。

「ずいぶん大変だったでしょう?」

「……大変と言えば、大変だったが……」

 アロンは上着の肩をすくめて、ほっとした笑顔になる。頬には筆舌に尽くしがたい緊張の名残が汗のように薄く残っていた。

 命がけの旅は予想外のお出迎えで、ひとまず半分は完了したのだ。人間に会えた安心感のせいだろうか? 初見のいかめしさもずいぶんと和らいでいた。

「夜明けまで門の前で待つつもりでいたんだけれど……」

 旅人の眼差しは狼の娘の顔にじっと注がれている。

「そしたらわたしがいた、というわけですね」

 エステルは優しくにっこりとして、やや可笑しそうに人差し指で唇に触れる。

 かすかに胸がうずくのを感じた。

 甘さと痛さが混じりあったようなざわめき。

 まだ残る心の痛みと、新しい鼓動の高まりを封じ込めるかのように、片手でそっと胸元を押さえる。ひどく不謹慎な気がして軽く唇を噛んだ。まだ「彼」以外の男性にこんなにもくつろいだ笑顔を向けたことはないように思い、少々気が咎めたのだ。

 五センチほど背すじを離す。

 肩同士が触れ合わないように、さりげなく慎重に距離をおく。無自覚に流れないように。

 相手は近い歳の男だ。あの少年のような子どもでない。

「でも、どうしてこんなところに……」

「わたしだって、たまには寝つけなかったり、気が高ぶることがあるんです」

 予想された問いかけを、エステルは話しながら用意した答えでかわす。しかし今気が高ぶりぎみなのはアロンのせいだと薄々と察しがついていて、寒気を感じていた。

(……これじゃだめだわ……)

 エステルは心の中で迷いながら頭を振った。

 アロンは察しかけたような、わかったようなわからないような表情になる。

「気が高ぶる?」

「ええ」

 エステルはしばし口を噤み、気を紛らすように夜の明けない空を見上げる。

 上空のオーロラが暁の赤みを帯びるまでに、まだ時間がある。

 灰色がかった白乳色の空はまだ濃紺に暗く波立っている。だんだんに薄れてゆく夜の銀のベールがところどころ、火花のような赤を織り交ぜてはためいている。まるで夜明けの天使か妖精かが、天の錦に火打石で着火を試みているかのようだった。

 思い起こせば。

 こんなふうに「彼」と夜明けを待ったことはなかった。

 ふいに目頭がかっと熱くなって、隠すみたいにして目許を手の甲でぬぐう。

(あれ?)

 空に天使の輪のようなものが浮かんでいる。……錯覚ではなかった。

「車輪が……」

 エステルの喉から、ぼんやりとか細い声が漏れた。

 気象条件次第で、ときどき上空に円形の笠のような虹が現れることがある。今も山際に、小さく赤と黄色ににじんだ輪が揺らめいていた。

 この特殊な丸い虹は同質のものであっても、時間帯によって名前が違ってくる。

 今現在の明け方前後の場合、「アウローラ(暁の女神)の馬車」と呼ばれる。日中に観察されるものは「ポイボス(太陽神)の戦車」と言われ、深夜のものは「ディアナ(月と狩猟の女神)の投げ縄」と称される。……それから人によっては「天国への辻馬車」とも。

 アロンはふと無自覚に呟く。

「あれって、月と比べてどっちが大きいんだろう?」

「『月』ですか?」

 エステルは耳慣れない単語に鸚鵡返しする。知識として知ってはいても、なじみのない代物であった。このタイミングで転がり出るとは思いもよらなかったのだ。

「そう!」

 アロンは声を弾ませ、慌しい手つきでポケットをまさぐる。古い硬貨を一枚取り出した。人差し指と親指で上下をつまんで、目の前にかざす。

「丸い満月のときは、これくらいの大きさだったって。それで欠けるにつれて、だんだん大きくなったって」

「欠けるにつれて?」

 半信半疑で問い返すエステルに、アロンはわずかに興奮した口調で説明する。

「欠けるにつれてサイズがでかくなって。光の量はあんまり変わらなかったらしい」

 エステルは疑惑の目で空の前にある硬貨をじっと見る。背景に白銀のオーロラが揺れている。まるで水槽の中の観賞用鞠藻か、ソーダに浮かんだアイスクリームのようだった。

 ずっと過去の時代にはこんな天体が空に浮かんでいたというのだろうか?

「ほんとーですか?」

 振り向けられた乙女の視線は、摩訶不思議な噂話を吟味するそれだ。

「本当だ……絶対に」

 アロンは子どものようにムキになる。エステルは可笑しくなって、小さく噴出してしまう。アロンは感情を害したか、呆れたみたいに小さく溜息する。

「あるんだよ、本当に」

「それは……その、ごめんなさい」

 エステルはまだ目許をゆるませたままで、詫びる。どうしてこうまでムキになるのか?

「でも。それは、雲の上にはあるって、いっくら話に聞いていたって。もう消えてしまったものでしょ? それこそ何百年も、何千年も昔に」

「それでも……あるものは、あるんだし」

 アロンは口ごもりつつも強弁しようとする。ひどく重要な事柄のように。

「今でも雲の穴から見える場所があるって」

「アロンさんは、見たことあるんですか?」

 エステルの率直な問いかけに、アロンは間を置いて不承不承に答えた。

「ない、けど……いつかは……機会はあるさ」

「でも、アロンさんはどうして月になんかこだわるんです? 見えないのに?」

 エステルの疑問はそこだった。アロンはにわかに真剣に、眉の間に皺までよせた。

「こういう役目やってると、そうでも思ってなきゃやってられないからさ。……たまにどうしようもなくって、『このまま寝っ転がって終わりにしようか』とか思うとき。そんなときに月のことを考えることにしてるワケ。『俺はまだ月もみてないぞ』『月を見るまでくたばってたまるか』って思うわけだよ」

 エステルは頷いた。そういう理屈ならば、理解できなくもなかった。

「……それで何回命拾いしたか、わかりゃしない。伝令だの探索だのやってる連中は、誰だってそういう架空の目標みたいなのがあるし。ほとんどそいつ個人の宗教みたいなもんだ。迷信って旧来種の専売特許じゃないんだぜ? 誰だって根っこの動機なんて、理不尽で感情的なもんさ」

「それで、見えもしない月を……?」

 エステルは繰り返し、二三回「ふーん」と顎を揺する。

 このアロンという龍の若者にとって、月は目に見えなくとも一番確かなものなのだろう。

 ちょうどエステルにとって「彼」の愛情がそうであるように。でも、もう再会するような未来の望みはない。胸の中が重くなる。エステルは沈みそうな感情を鼓舞した。

「アロンさんは、恋人っています?」

「なにを急に?」

 当惑するアロンにエステルは同じくらいに狼狽し、顔を振って誤解を打ち消す。

「いえ、別に、そういう意味じゃなくって。お国とかに、そういう方はみえませんの? 将来決まった方とか、それか、奥さんとか?」

「……あいにく……」

 案の定と言えば、案の定。アロンは少し膨れて弁明する。苦笑していた。

「だいたい、こんな危ない役目こなしてて、まともに恋人なんかつくれるか? ほったらかしで……こっちだって、いつどこで死ぬかわからないのに……」

 もっともな理屈だったが、寂しく物足りない話だった。

 だが「彼」を失った身としては身にしみる。エステルは思い切って切り出した。

「もしも……」

 エステルは声を震わせて、鋭さの増した眼差しでアロンを覗き込んだ。

「もしも、恋人のために命を落した男がいたとしたら。アロンさんはどう思います?」

「……命を助けるために、とか?」

 さりげない一言が激しく胸を刺す。

 無理強いに命を賭けさせたのではないにせよ……自責の念は去らない。たかが宝石一つのために命を捨てさせたも同然だった。あまりに自分自身がバカバカしく思えて、浅ましさに口に出すのも憚られる。

 けれども結局、エステルは訊かずにいられなかった。

「恋人のために……宝石を得ようとして」

 アロンはキョトンとしていたが、あっさり即答した。

「……アホだね、そいつは」

 脈打つ心臓を錆びた包丁で、至極無遠慮にえぐられた気がした。息が詰まって、瞬間的に頭が破裂しそうだった。無辜の回答者にほとんど殺意すら湧く。

 アロンは再び空を見ていたので、エステルの変調には気がついていないふうだった。

「でも……」

「…………」

 ぐっと息を詰めて殺意に惑うエステルに、アロンはぼんやりと呟き答えた。

「しょうがないっちゃ、しょうがない。そいつの宗教みたいなもんだし、他人がどうこう言うようなこっちゃないね。ヘマやったにしろ、信念があったんだろ」

 エステルはどっと涙が溢れて、感情が決壊したように泣き出してしまう。

 びっくりしたアロンは慌ててエステルを見やったが、こればかりはどうしようもない。

「いったいどうしたっていうんだよ? 急に……」

 どうやら女に泣かれることに慣れていないらしく、旅の猛者も慌てふためく。

 エステルは「彼」の行動が認められたことに、何度も何度も強く頷いた。
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