幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編

第二章 嘘のかたち

1
 鉱物樹は無機物で構成された結晶の枝々を縦横無尽に張り巡らせ、沈んだトーンの藍色に、水面の波のような白い輪郭を照り返していた。不可思議な存在感で城市の壁までを埋め尽くしている。まるで神話的な蜘蛛の巣のように恐ろしく、神々の山の雲波のように霊妙な風景をかもしだしている。

 ときおりにハープやフルートの遠い音ような物音や、誰かが歌っているような声が聞こえてくるのは、小枝を夜風が揺らすからだ。数千どころか数万の風鈴が、大気の戯れの前に無造作に広げ並べられている。その音色は生きている木々よりも高い音質で、静かに胸や耳の奥にまでも響いてくる。

 この方面はまだ、あの強酸性の湖に象徴されるように浄化されていない。けれども生物を模倣しているかのような擬似的な樹木が森を形成している。木材を切り出すようにして精錬し、鉱物資源としても利用される。それらの偽りの木立ちは本物の葉っぱのような、赤銅色や銀灰色の葉を落す。

 そして青い花に生まれ変わり、新しい土に死に変わり、少しずつ大地は浄化されていく。


2
 朝焼けの赤い光が差す頃には、エステルも泣き止んでいた。

「町へご案内します」

 立ち上がりながら湖の方を一瞥する。もうとっくに亡霊たちの影は見えない。

 振り仰げば明るくなった白乳色の空の一角が、きらっと光った気がした。天国への辻馬車。小さな光の輪が二つ、ふわふわと天頂の高みへと流れていったのだ。


3
 エステルは外市の城門の前で門衛に伝え、役所に取り次がせる。それから宿にまで案内した。アロンを外市の宿に待機させ、朝一番で屋敷に戻った。

(やれやれ。夢遊病にでもなったのかしら)

 変身したことなども、はっきりと覚えてはいない。

 漠然とした夢のような記憶があるばかりだ。

 全てが夢のようなものだった。

 南西の内市の門は左右をスフィンクスに守られている。獅子の身体をもつ一対の乙女の像は横座りで、淑やかに通過者たちを品定めしているようだった。

 崖に彫りこまれた幅広な階段の左右にはフレスコ画。白地の漆喰と一緒に固まった絵の具は長持ちする。天国の饗宴のシーンだ。
 けれどももっと遥かな東方では天国はひとりひとりに永遠ではない。その楽園に生まれ変わったとしても、定められた寿命がある。幸福は永久に続くわけではない。華やかな酒宴の風景にところどころ、五衰のきざしに浮かない顔の老人たちが描きこまれているのはその影響だろう。

 内市に入って馬車を拾う。長い距離を歩いていくにはくたびれていたし、こんなくつろぎ姿の格好を他人に見られるのも恥ずかしかったからだ。

 職業柄立ち入りを許された平民種の御者は、エステルを見てほっとした様子だった。だが様子のおかしさが気になっていることはありありと顔色に表れていた。

 二輪馬車は石畳の上を滑り出す。馬たちは朝の空気に蒸気を吐いている。

 初老の御者は気遣うようにおずおずと訊ねた。

「おかげんは?」

「ええ。夜の散歩をしていたら。締め出しを食ってしまいましたわ」

「……身体は大事にせにゃいかん」

 しばらくのだんまりの後で老人はポツリと言った。

「お気の毒だったけどなあ……気ィ落したら良うない。お嬢さんやったら、また、ええ相手も見つかるでしょうに」

 いきさつを知っているらしい。エステルはびっくりして問い返す。

「わたしをご存知なんですか?」

「覚えとったほうが便利ですからな。気のいいお客さんもいたら、なるだけ避けたほうがいいお客さんもいますし。同じ仕事して、優しい言葉の一つもかけられるんと、気まぐれで殴られるんとではえらい違いですし」

 自宅の前に着くとエステルは礼を言って馬車を降りた。


4
 約五時間後の昼下がり。

 着替えたエステルは早足で街角を進む。

 ちょうど給与の支払日らしく、大きな邸宅の前では狼の家士や平民の召使の行列がチラホラ。ときどき食器が割れる音や、悲鳴が聞こえてくる。通常、給与日には軽食が振舞われるのだが。パーティはしばしば弾劾にすりかわってしまう。

 なぜなら定例の食事会は一種の交渉の場でもあるからだ。元は雇い主が使用人たちをなだめるため、懐柔目的で食事を供したのがはじまりの風習。今だって家士の側で待遇が気に食わなかった場合、匙を投げて主人に抗議することは「合法」とされる。日常の扱いがあんまりだと、頭から定番メニューのピラフをかぶせられることまである。

 鼎の軽重、主人として真価を問われる日というわけだ。

 無礼講のにぎやかさに浮き立って、軽やかに道を急ぐ。

 復讐。

 そんな言葉がひときわに甘美に思える。

 現実味を帯びてきただけに余計に。

 少女のあどけない顔には、歳に似合わない不遜な微笑が半瞬だけ浮かんでは消えた。


5
 曰く『鳩のように純真に、蛇のように賢しく』。

 少女時代からずいぶん研鑚を積んでいた。達人であるラスティニャック伯爵夫人から、懇寧な手ほどきを受けている。宮廷政治の中で生き残るための英才教育を。

 これも立派な花嫁教育の一環。なぜなら国家が君主の私物であるこの国では、「家」が大きな意義をもってくる。公私混同が基調であり、浅はかな道学者の説くモラルは真実を見誤らせる。狼の国の社会の現実は公生活と私生活が表裏一体、密接に絡み合っているのだ。

 しかも男の騎士や従士たちは皮肉なこと、平和が続くかぎりそうそう武勲をたてることなどできはしない。そこが騎馬試合や剣闘、弓術の競技が頻繁に行われる所以だ。それを名目に多数の騎士団が構成されている。だがそれだけでは、やっぱり目立った出世は難しいのだ。

 ゆえに奥方の賢さや美しさ、評判や交際関係が夫や子の運命、ときに生命にまで影響する。そんな事情が高名な貴婦人を中心に各々サロンが盛んになる一因だった。

 逆説のようだが。虚栄と遊蕩がどうしても必要不可欠なのだ。

 夫の昇進や子の後見を得るため、老いた権力者と一夜を契る女も少なくない。乱脈は日常茶飯事だし、若く逞しい騎士や美しい少年を身辺にはべらせることは貴婦人のステータスでさえある。切り札を確保するためにも美貌や才知は常に磨かなくてはならないのだ。餌をちらつかせて獲物を釣る駆け引きの手練手管も。

 そういう、今ある爛れた世相がどうしても嫌なら……出家でもするしかない。

 陽炎のような偽りでも華麗に身を飾るか、とりつくしまもない真理で世を拗ねるか。

 虚飾か僧服か、それこそが一大問題なのだ。

 多くの少女たちと同じように。エステルはこの世の楽しみを捨てる気はさらさらなかった。それに生涯の伴侶を一生ただの下っ端騎士で終わらせるつもりも毛頭なかったのだ。結婚すれば生まれてくるであろう我が子のためでもあったし、多少の狡知を弄してでも絶対に出世させる決心をしていた。

 願いの全てが台無しになった今、もはや潔く復讐に走る他、道はない。

 そう考える辺り、エステルは真に由緒正しき狼の娘だった。
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