幽霊の国の狼娘/※耽美風ゴシック?中編+短編
6
 エステルが外市にアロンの借りた個室を訪れたとき。アロンはちょうど上着を脱いでシャツを取り替えているところだった。

「盛装とまではいかないが」

 アロンは肩掛け鞄から、新しい礼装用の真白いシャツをとりだした。レースつきの上等そうなものだ。こういうときのためなのか、コンパクトに密封してあったらしい。紋章入りのタイとピンまでついている。ズボンは洗って干してあった替えを履いていくつもりのようだ。

 エステルは無遠慮にならない程度に観察していた。スマートに引き締まって、贅肉の欠片もない。長旅のせいもあるのだろうが、基本は実用本位で鍛えた体つきだった。

 すばやく近寄り、ぴとっと裸の背中に指を押し付ける。背すじの左にセンチ、ちょうど心臓のあたり。汗と体温、皮膚の下で背筋が動く。鼓動は……少し。

 振り返ったアロンにエステルはくったくなくはにかんだ。

「スキだらけですよ、アロンさん」

「隙って、そりゃあんたしかいないし」

 アロンは武断派の常として脇が甘いようだ。エステルの素人目に見てもそう感じられた。この狼の都では最近では珍しいタイプだろう。

 薄いシャツの上から筋肉質の腕に触れると、彼はわずかに顔を赤らめたようだった。

「さぞかし、お強いんでしょうね」

 エステルのまっすぐな賞賛は、若干のからかいと揶揄を孕んでいる。

「でもそれで、百人を相手にできますか? アロンさんと同じくらい強い人だって、いっぱいいるでしょうに」

(しばらく、ついていてあげなきゃいけないかも)

 直感的にそんなふうに心配に思ってしまう。

 これから駒に利用しようというのに。

 黒い刺繍入りの上着は折畳ブラシでブラッシングして、ハンガーにかけられてあった。敷居の入り際に目ざとく、部屋を視線で一瞥、ざっと様子をうかがってある。

「どこか出かけられるんですか?」

 アロンは思いついたみたいに歯の欠けた櫛を取り出した。

「迎賓館に」

「迎賓館?」

 髪を乱雑に梳きながらアロンはまた向き直った。

「午前中に役所に行ってきたら……さっき使いが来て、晩餐にどうかって」

「……よかったですね」

 エステルはやや複雑な思案を先じて相槌を打つ。宮廷がらみは魑魅魍魎の巣だ。

 けれども彼は彼で、薄々に合わなさそうな気配を察知しているらしかった。

「見た目だけで、馬鹿にされた……探索旅行なんだから、こんなんでもしょーがないだろーに。『相方の女を連れてきても良い』だとさ。無理と承知で言ってやがるのさ」

「へえ」

 好都合にエステルは怜悧に目を細める。鴨ネギ、渡りに船である。

 狡猾な乙女は腕を後ろ手に組んでハラッと身を揺らした。

「もし良かったら、わたしがご一緒しましょうか?」

「……いいのか?」

 申し出に驚き顔のアロン。まんざらでもなさげである。

 やや思案する仕草で問いかけるアロンに、エステルはあどけなく笑みかけた。

「もちろんです。最初にお顔を合わせたわけですし。付き添いとしてなら」

 二人が連れ立って出かけたのは、夕焼けの鮮やかなオレンジのベールが舞うころ。

 迎えの馬車の御者は軽い驚きに口笛を吹いた。


7
 晩餐の後、馬車で送ってもらった別れ前に、アロンは思いついたらしく訊ねる。

「ところで、このあたりに刀鍛冶はいるかな」

「刀が欲しいんですか?」

 アロンは頷いた。

「旅の途中で短剣が片方駄目になってしまって。せっかく町に着いたんだし。……それに帰り道のこともあるから」

 帰り。

 そんなありふれた言葉に胸がふさがったみたいになってしまう。胸の奥がシクシク痛むよう。悔しいので横を向いて悟られないようにする。かわりに抑揚のない声で返事をする。

「いいですよ。外市のお店を紹介します……ご案内しましょうか?」

 エステルは弾かれたように顔を上げ、アロンに向き合った。

「でも、勝手にいなくなるなんてのはナシですよ」

 言葉の内容よりも、あんまりに真剣な表情に気おされたらしい。アロンの反応に我に返ったエステルは、大急ぎで付け加えた。

「友達や知り合いにも紹介したいですし。アロンさんだって、この国に知り合いができるのは有利だし、お仕事のうちでしょ? ……それに、『彼』のお墓にも、一緒に参って欲しいんです。絶対に、よろこぶ、と……」

 気が高ぶって終いまで言えない。そのあと別れるまでしばらくの間は黙ってしまった。


8
 あの「教師で世話役」のラスティニャック伯爵夫人の邸宅の前で下ろしてもらった。晩餐会に出る途中に衣装合わせに自分の屋敷寄ってもらい、あらかじめそう告げてあったのだ。

 槍衾のような忍び返しの穂先が鋭い柵に囲まれているのは他所の邸宅と大差がない。ただし幾何学式の庭園が主人の理知的な趣味を示している。もしも更地ならちょっとした運動場にくらいはなったのだろうが、すでに隅々にまで意匠がこらされてその余地はない。無用の用の真逆、完全な内的調和に満たされて、そこに存在する形のままで価値がある。

 小ぶりな露天の空間には様々な四角や三角、円や楕円の図形を並べたように花壇があつらえられている。型抜きするようにさして高くはない植え込みが、迷路のような印象を醸すのだ。しかも噴水や効果的に配置された庭木、それから壁画のある衝立のような壁が垂直軸の存在をアピールする。純粋に人工的な三次元の美がそこにあった。景観と構成の中心をなしているのは、方形を組み合わせたような建物。

 淡くまだらにかすんだ闇に、キンモクセイの甘く官能的な匂いが漂っている。小さなオレンジの花の群れは神仙の境の香りがした。

 物見高いキャサリンが屋敷を出、鉄門の近くまでやってくる。ブロンドの巻き毛をガス灯の明かりにきらきら揺すりながら。

 このサロンは半分は淑女学校のようなものだから、親元公認で泊まっていくことも可能なのだった。

「あの殿方……どうしたの?」

 見送りの顔を輝かせるキャサリンに、エステルは努めて冷静に答えた。

「お客様よ。西のアウストラシアからの」

 目を丸くするキャサリンに、エステルは語をついだ。

「最初に出くわしたご縁で、いろいろとご案内したりとか……」

「やったじゃん」

 この気の良い友人は単純に嬉しいらしかった。エステルの「復讐」の意図までは思いが至らなかったらしい。

「……うん」

 エステルは温かくて後ろ暗い、複雑な感情を、ひとまず喉の奥に飲み込んだ。

 庭のあちこちにはタンポポの綿玉みたいな電気灯が、座標を示すように同心円上に薄れていく光を投げかけている。綿毛のような光の粒子が放散されて、周囲を照らして重なり合っていく。そのうち一つが天女(アプラサス)の絵画を浮かび上がらせる。タッチは写実的でこそないくせ、あまりにも肉感的だった。濾過された官能の波長が伝わってくるようだ。恋した男は羽衣を隠し、彼女の帰還を妨げたと伝えられる。けれども最後には恋破れ、天女は元いた天に帰ってしまう。

 別の場所では、オルペウスが地獄の番犬をハープの心地よい音色で眠らせている。亡くした妻を冥府から連れ戻すために。あるいは糸球を携えたアリアドネが英雄ペルセウスに結びつけた糸の先に目を凝らしている。

 白石の歩道を玄関へと進みながら、エステルの思いは千々に乱れた。
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