桜花彩麗伝

「わたしなら平気です」

「え……?」

「大丈夫です。与えられた役目をきちんと果たしてきますから」

 ぎゅ、といっそう強く記録日誌を抱き締める。

 無理に笑っている様子はなかったが、それが逆に莞永の心に(もや)を呼び寄せた。漠然(ばくぜん)と嫌な予感が渦巻く。

 医女を信用していないわけではないが、何か不吉なことが起こるような気がしてならない。

「だけど……」

「莞永、いい加減にしろ。それ以上その女と口をきくなら証人とは認めない」

「そんな!」

「言っておくが、公正を期すためだぞ。証言の直前に誰かと会っていたりしては信ぴょう性に欠けるだろ」

 今度こそ二の句を継げなくなる。莞永は拳を握り締めながら医女から離れた。
 航季の「さっさと行け」という言葉に従い、やむなく錦衣衛をあとにする────。

「莞永さん……すみません、俺のせいで」

「……いや、旺靖は悪くないよ。どのみち蕭家は彼女のこと嗅ぎつけてたはずだし」

 尋問場へ向かう道すがら話す声はどうしても沈んだものになってしまう。

 どうにか納得しようとしたものの、莞永にはやはりそれが正しいとは思えなかった。

 あの医女は朔弦たちの無実を証すためにせっかく掴んだ糸口だ。春蘭から託された希望だ。
 ここでみすみす失うわけにはいかないだろう。

「……旺靖、やっぱり戻ろう」

「えっ!?」

「僕がどうにか蕭尚書を連れ出すから、あの医女のことはきみが守ってくれないか」



 急ぎ足で錦衣衛へ引き返したふたりは、屋舎へ入っていく航季と医女の姿を認めた。
 莞永がこくりと旺靖に頷いてみせると、彼は先ほどみたく牆壁(しょうへき)の裏に身を隠す。

「蕭尚書!」

 ひとり飛び出していった莞永は声を張る。
 それを受け振り向いた航季が怪訝(けげん)そうな顔をした。

「……何だ、まだいたのか」

「侍中がお呼びです。執務室へ至急来るように、と」

「父上が?」

「はい、とにかく急用だそうです。お急ぎください」

 黙した航季は吟味(ぎんみ)するように莞永を見据え、医女を一瞥(いちべつ)し、ややあって動き出した。

「……分かった、執務室だな。おまえも一緒に来い。途中で別れて先に尋問場へ向かえ」

 ここに残して下手な真似をされては困る、という判断からだろう。
 思った通り、容燕の名を出せば動かせると踏んだのは正しかった。

 大人しく「はい」と従った莞永は小門を潜ると、人知れず旺靖に目配せする。

 彼は親指を立て、力強く頷いてくれた。
 頷き返して応えた莞永は、今度こそ錦衣衛をあとにしたのだった。
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