桜花彩麗伝
決して大きな声ではなかったが、確かに空気が揺れた。波立って一変する。
「……いま、何と?」
聞こえなかったわけではない。むしろ凜としてはっきり耳に届いた。
一段低くなったその声に煌凌は思わず怯んでしまう。確かな憤りの気配に肌を刺され、鋭い眼差しに気圧される。
しかし、屈するわけにはいかない。
負けるわけにはいかない。
何としても守らなければ。────もう二度と、大切な人たちを失いたくない。
煌凌は勇気を振り絞り、俯きそうになる顔を上げた。
「妃は、余が選びます」
唖然とした太后は、しばらくほうけたように言葉を失っていた。
驚愕に明け暮れ、信じられない思いで王を凝視する。
煌凌もまた、負けじと真正面から見返した。
面と向かって太后の意に背いたのは、これが初めてのことであった。
「……正気ですか」
「はい」
「わたくしに逆らうと?」
訂正するのであれば最後の機会だ、と言わんばかりの威圧感を感じながらも、平静を保つよう己を奮い立たせた。
毅然として言を返してみせる。
「何を言われようと、こればかりは譲れません」
著しく機嫌を損ねた様子の太后が殿をあとにするや否や、慌てたように清羽と菫礼、さらには莞永が飛び込んできた。
薬材事件の犯人としてならず者が処刑された日、異様なほど白い顔をしていた煌凌のことを、莞永は絶えず案じていた。
今日も様子を見にきた次第であるが、太后の来訪を知り、退殿するまで待っていたのである。
「へ、陛下! 太后さまに刃向かうなんて……」
青ざめた顔で清羽が言う。
一応扉の外で控えてはいたものの、非礼を承知で三人が三人とも聞き耳を立てていた。ひとえに煌凌のことが心配で。
彼は動悸をおさめようと深呼吸を繰り返す。極度の緊張から解放され、ようやく息ができた。
太后の前ではどうにか冷静を貫いたが、内心は震えが止まらなかった。
いまさらながら、よくあれほど大胆な態度を取れたものだ。
事の重大さを自覚すると、その事実がひどく恐ろしくなってきた。
蕭家と手を組んだ太后に刃向かうということは、容燕に楯突いたも同然である。