桜花彩麗伝
思いもよらないことを言われた、というように櫂秦は目をしばたたかせる。
「百馨湯が出回れば、高騰も落ち着くでしょうね」
「そうなの。そうすれば配給分で行き渡らなくても手に入るようになるわ」
「いくらで売る気だ?」
「タダで」
「…………」
「だって、売ろうと思ったら連中に没収されて終わりでしょ」
柊州を支配下に置き、商いを掌握し、百馨湯を独占してのけた紅蓮教が、その取り引きを看過するはずがない。
無償でも密かに配給することだけが、患者の手に薬材を届ける唯一の手段であろう。
「ここで百馨湯の高騰と品薄を食い止められたら、蕭家の思惑を潰せる」
決然たる静かな声色で春蘭が言った。
「蕭家は……このまま疫病が広がり、さらに百馨湯が値上がるのを待っているのですね」
困窮を極め立ち行かなくなったときに売り払えば、莫大な資金を得られること請け合いだ。
虎視眈々と機会を窺っているのだろう。
「なるほどな。今回はのちの利を追うのが賢明ってわけか」
「そう。問題はその手段なんだけど────」
「お嬢さま!」
不意に呼ばれ、言葉が途切れる。
どこか慌てた調子でぱたぱたと橋を駆けてくる芙蓉が目に入った。
「今夜、左羽林軍の謝将軍がいらっしゃるそうです」
◇
戌の刻、朔弦は莞永を伴って鳳邸を目指していた。
門前で停まった軒車から降りると、莞永はその広大さに目を見張ってしまう。さすがと言うべきか名門家の名に恥じない。
由緒ある屋敷であるが、古くささはまったく感じられなかった。
雅趣な技巧を凝らした造りは堂々とその威厳を保っている。
「すごい……。立派なお屋敷ですね」
圧倒された莞永は入る前から緊張してしまった。自然と背筋が伸びる。
一方で何ら普段と変わらず冷静そのものの朔弦は、悠然と後ろで手を組み歩き出す。
「……行こう」
────先に元明への挨拶を済ませて庭院へ出ると、そこで待っていたひとりの男に一礼で迎えられた。
月明かりと灯籠の灯りに照らされ、姿ははっきりと捉えられる。
上質な絹衣に身を包んだ彼はその整った顔に柔和な微笑をたたえ、胸に手を当てた。
「お初にお目にかかります。わたくし、春蘭お嬢さまの執事を務めている紫苑と申します」