桜花彩麗伝
ぎくりと春蘭の身が強張った。咄嗟に夢幻のことがよぎり、心臓を鷲掴みにされたかのごとき動揺が駆け巡る。
「あ、ああ……紫苑のことですか? それでしたら────」
「ちがう。……分かっているだろう」
確かに紫苑とやらも一緒だったが、聞きたいのは笠を被った人物の方だ。
ひとしずくの月光を溶かし込んだかのような、艶やかな白銀の髪をそなえた長身の男。
みなまで言わずとも心当たりがあるのだろう。春蘭の固まった表情を見れば分かる。
その上でとぼけたところを見ると、怪しいと感じずにはいられなかった。
「み、見間違いじゃありませんか? わたし、紫苑としか出かけてませんし……」
「わたしの目を疑うのか」
「じゃあ人違いとか……! とにかく、わたしには何のことだか分かりません」
ふるふると首を横に振って否定するが、疑惑を深めた朔弦は鋭く目を細める。白を切っているのは明白だ。
しかし、ここで問い詰めても埒が明かないだろう。決して口を開くまいという覚悟だけは伝わってきたからだ。
「……そうか。まぁ気にするな、ただの世間話だ」
「え……っ?」
意外なほどあっさりとした引き際に、思わず正直に戸惑ってしまった。
以前、百馨湯に関して疑われたときと同じく、欺けたという手応えはまるでない。
「────それより、知っているか? 王は太陽、王妃は月に喩えられる」
大して頓着することもなく、朔弦は話題を変えた。
一件の礼を告げる以外にはこれが本題である。
「遥か昔……空に明るい月が出た折、太陽の光が増したそうだ」
本来は逆だろう。本質は天文の話ではなかった。
聡明で慎み深い王妃の存在が、王の壮健と国の繁栄に繋がるということである。
「おまえは、そんな月になりたいと思うか?」
戸惑うように春蘭の双眸が揺れた。
王妃になる気はあるか。そう問われたも同然だ。しかし、なぜ朔弦がそんなことを聞くのだろう。
いずれにしても、明確な答えはまだ持ち合わせていない。
「……正直、分かりません。わたしの一存で決められるものでもないですし」
なりたいと言えばなれる、なりたくないと言えば免れられる……そんな単純な話ではない。
夢幻に諭されはしたが、王妃になる覚悟も決意も、薄弱どころかあるのかどうかさえ定かではなかった。