桜花彩麗伝
当然ながら、顔も名前も知らないこの国の王に情があるはずもない。
無力な王に嫁げば、むしろそれが鳳家や自分の枷になる可能性だってある。感情の部分でも割り切れない。
これほどに不確かな中、自らの婚姻を利用することにはどうしても抵抗を禁じ得なかった。
「…………」
朔弦は口を噤んだ。
まだ追いつかない、という春蘭の気持ちは分からないでもない。
しかし鳳家の姫として生まれた以上、その役目は理解しているはずである。それほど悠長なことを言っていられるような間がないことも。
(とはいえ……)
見限るように目を伏せた。だめだ、と率直に思った。
唯一、蕭姫に対抗できる器を持ち合わせた鳳姫が、この程度の覚悟しか持ち合わせていないとは。
王の頼み通りに手を貸せば、害を被るのは朔弦だけでは済まないかもしれない。
叔父に相談する前に会いにきて正解だった。いまならまだ引き返せる。
────用件を切り上げ、朔弦は客間をあとにした。
泰然自若として眉ひとつ動かさず、傍から心情を読み取ることはやはりできなかった。
長くそばにいる莞永にさえ悟らせない。
帰り際、紫苑がふたりを門まで見送る。
揺らめく花筏に、もうひとひら舞い落ちる。不意に朔弦が足を止めた。
「……紫苑といったな」
「はい」
「おまえは随分とあの者を慕っているように見受けたが」
振り向きざまに言う。莞永は思わず庭院から灯りの漏れる客間の方を見やった。
「ええ、わたしはお嬢さまをそばでお守りするために生きていますので」
当然だと言わんばかりの即答ぶりである。
春蘭のためならば命をも捨てられる、ということだろう。
決して大げさな冗談などではなかった。紫苑の眼差しは真剣そのものだ。
だが、と朔弦は考える。
彼の春蘭に向ける感情は、恋慕とは異なっている気がした。ただの主従関係ともちがうように思う。
その実の心情は測りかねたが、何らかの特別な思いがあるのだろうことは確かであった。
(……あの者にそこまでの価値があるか?)
さすがに、思うだけに留まった。
その存在価値を頭ごなしに否定できるほど、彼らのことを知り尽くしてはいない。