桜花彩麗伝

 同意を求められた彼は、しかし真剣な面持ちのまま答えなかった。

 ────一日か長くて数日であろうと、春蘭と離れるなんてありえない。
 己の本分も感情も少し前までであればそう一致していた。

 しかし、そこに迷いが巣食ったいま、櫂秦の提案を一笑に()すこともできなかった。
 春蘭にとってよりよい選択をするということが、本当の意味で彼女のためになるだろう。

「……分かった、わたしも行こう」

 紫苑は深く頷いてみせる。
 意外ではあるが真っ当な、それでいて望み通りの答えだ。櫂秦は頷き返した。

「そうこなくちゃな」

「紫苑……」

 一方で春蘭は色よい反応を示さなかった。
 柊州は言わば魔窟(まくつ)であり、一歩でも足を踏み入れようものなら命の保証はない。
 そんなところにふたりを放り込むのはやはり不安でしかなかった。

 配給の提案は確かにしたが、その手段については熟慮するつもりでいた。安全と確実性を最優先できるような良案を。
 ふたりが直接赴く正攻法では、その無事が案じられてならなかった。

「お嬢さま、どうかご心配なく。怪我人に無理はさせませんから」

「そうそう、包帯ぐるぐる巻きにするから平気だぜ」

「わたしも(わきま)えています。お嬢さまを悲しませるようなことはしません。必ず無事に帰ってくるとお約束します」

 物腰柔らかながら決然と告げる。
 そう言われては、春蘭も信じるほかになかった。
 たちどころに不安感が信頼に塗り替えられていき、頬や肩から力が抜ける。

「気をつけてね、ふたりとも」

「ええ、お任せください」

「長居も無茶もしねぇから。……おまえも頑張れよ」



     ◇



 香炉(こうろ)から柔らかな煙が立ちのぼり、緩やかに溶けていく。

 盆を手に春蘭のいる窓際の円卓へ寄った芙蓉は、ひときわ丁寧な所作で茶の支度をした。杯に注ぐと花が開く。

「どうぞ、お嬢さま。お好きな花茶です」

 ひとくち含むとまろやかで優しい風味が広がる。春蘭は微笑んだ。

「ありがと。今日も美味しいわ」

 その言葉にぱっと顔を晴れさせる。
 茶を淹れること────それは楓州の出である芙蓉にとって唯一誇れる取り柄だった。
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