桜花彩麗伝

 何となく兄の事情に重ねてしまった櫂秦は眉をひそめ呟いた。

「でも、父上は嫡子の方にはお優しいですよ。特に長子の碧依(へきい)さんには、格別に目をかけてたみたいです」

「ヘキイ? ……そんな奴いたか?」

 初めて耳にする名だった。情報通の光祥から何かと聞き及んでいた櫂秦だが、碧依とやらについては初耳である。

「碧兄上は……いまはもういません。幼い頃に家を出ていったきりずっと消息不明です。生死も分かりません。……唯一、僕に優しくしてくれたのに」

 母を早くに亡くし、父にも兄妹たちにも冷遇され、泣いていた幼い榮瑶を気にかけてくれたのは碧依のほかにいなかった。

 憐憫(れんびん)や同情によらない、彼のあたたかく優しい笑顔をいまでもよく覚えている。お陰で惨めさを感じることはなかった。

「……なあ、何で俺たちに話してくれたんだよ」

「あ、あなたが色々聞いたんじゃないですか」

「それはそーだけど。俺たちが敵だったらどうすんだ?」

 客観的に見ても立ち入った話をする相手としてふさわしくないだろう。
 それにも関わらず、榮瑶は真摯(しんし)に取り合った。聞かれたことには嘘偽りなくすべて答えた。

「……敵じゃないでしょう?」

 ぽつりとこぼされたひとことは既に確信めいたものであった。
 現状、彼にとっての明確な“敵”は極悪非道な紅蓮教以外にない。ここまでのやり取りや自身が誰なのかを知らなかったことからして、ふたりが教徒でないことは分かっていた。

「あなたたちが何者でも関係ないです。何を話したところで、これ以上事態が悪化することなんてないですから」

 ざわ、と風に揺れた(こずえ)が音を立てる。朧月(おぼろづき)を覆っていた雲がわずかに流れた。

「…………」

 紫苑は胸の前に回した結び目を握り締め、それから背負っていた風呂敷包みを下ろす。

「────蕭州牧。あなたの言う州牧の責務とは、州民を守ることですか?」

 驚いたように瞠目(どうもく)した彼は、しかし次の瞬間には毅然と首肯(しゅこう)した。
 紫苑の言葉はまさしく自分の信条に即しており、ぴたりと言い当てられた形となった。

「では、あなたにこれを預けます」
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