桜花彩麗伝

 薄暗い室内では気づくのが遅れてしまったが、煙によって視界も霞んでいた。
 認識した途端に息苦しくなり、咳き込んでしまう。
 かなり熱い。熱気で皮膚が焼けるほど痛い。

(早くここから出なくては────)

 急いで扉の取っ手に手をかけるが、金属製のそれは火傷するほど熱くなっていた。
 袖を引き伸ばし、何とか扉を開けて外へと飛び出す。

 火柱を避けながら走り出すと、背後で何かが崩れ落ちる音がした。
 振り返ると、先ほどまでいた書庫に燃えた柱が倒れ込んでいた。いっそう勢いが増し、辺りが火の海と化していく。

 宋妟は再び駆け出した。
 熱い。苦しい。痛い。悶えながらも、足は止めない。この火の海で溺れるわけにはいかない。

 ────書庫の小門を潜ると、人が倒れていることに気がついた。
 身なりからして門番兵のようだ。
 煙を吸い込み、意識を失ってしまったのかもしれない。

「大丈夫ですか? 立って、早く逃げなければ……」

 抱き起こそうとして不意に違和感を覚える。やけに重い。
 彼の脇下に差し込んだ手を抜いて見れば、掌が赤く染まっていた。
 ぽた、ぽた、と滴るそれは、間違いなく血である。

 はっとして見やると、門番兵は刀傷をいくつも負っており、既にこと切れているようだ。
 宋妟が動かしたことにより地面に血溜まりが広がっていく。

(おかしい……)

 明らかな他殺だ。もしやこの門番兵を殺害した人物が、隠滅を図るべく書庫に火を放ったのではないだろうか。
 しかし、宮中で殺人を犯すなどよほどのことである。増して放火までしてのけるとは。

 渦巻く陰謀の気配が、宋妟の背後に迫る。……嫌な、予感がした。

「いたぞ!」

 突如としてそんな叫び声が響いた。
 こちらへ駆けてくる数人の兵の姿を認める。その格好からして彼らは錦衣衛のようだ。

 様子が変だ。直感的にそう感じた宋妟は、慎重に立ち上がる。
 救助と消火に来てくれたわけではないのだろうか。

「恐れ多くも宮中で人を殺し、書庫に火を放った罪人だ。捕らえろ!」

 松明(たいまつ)を手にした兵が指しているのは、間違いなく自分自身であった。

 いったい何がどうなっているのだろう。
 戸惑い、狼狽えながらも、ここで捕まったら取り返しのつかないことになると、鳳一族たる自覚によって突き動かされた宋妟は、反射的に地を蹴って駆け出す。

「追え!」

 ひとまず逃げるしかない。話の通じる相手ではないだろう。
 捕まれば、陰謀の渦の中へ落とし込まれる。

 宋妟が無実かどうかなどもはや無関係だ。
 この場に宋妟がいたことを状況証拠として“白”でも“黒”に塗り替えるにちがいない。
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