桜花彩麗伝

 洞穴に戻ってきてから、彼女の態度が変わったことには気づいていた。
 恐らく、自分が罪人として追われる身であることを知られてしまったのだ。

 薪をくべていた春蘭は、考えるように宙を見つめる。

『わたしにも分からないわ。ただ、身体が勝手に動いたの』

 川から引き上げたときも、治療をしたときも。
 彼が罪人だと分かっていても、だからと言って見殺しにしていい理由にはならない。

『……ありがとう』

 死ぬはずだった命を、名も知らない幼い娘に救われた。
 生きている。生き延びている。
 その事実を実感し、彼は自身の胸に手を当てる。てのひらから伝わる鼓動を噛み締める。

 ────鳳宋妟は死んだ。
 矢で射られ、絶壁から転落したあのとき、確かに自分は一度死んだ。
 髪の変色とともに、彼は宋妟としての人生を捨てることに決めたのである。

 尋ねても、名はない、と答えた彼に、春蘭は“夢幻”と名づけてみせた。
 神秘的、それでいて触れたら消えてしまう雪の結晶のように淡く儚げな彼に。

『……実は、見ちゃった。錦衣衛の前に貼られたあなたの人相書き』

 やはり見たこと自体は確かだったようだが、それにしてもあまりに正直な告白だ。
 彼が本当に罪を犯した極悪人であったならば、口封じのためにその場で斬り殺されてもおかしくない。
 しかし、名を尋ねたのは鎌をかけたわけではなく、本当に知らないらしかった。

『それは────』

『でも、兵士が剥がしてたわ。()、亡くなったんですって』

 春蘭は彼の弁明を遮って言った。
 心の奥を探るように、その双眸(そうぼう)を覗き込む。

 彼も彼で春蘭の意図するところを察し、自身の身の上を語ることをやめた。

『“彼”は……無実です。罪人に仕立て上げられ、逃げるしかなかった。実際には罪なんて犯していないのに』

 ただ、それだけを静かに告げる。
 それだけ、知っていてくれれば十分だった。

 何の罪で追われていたのかも、本当の名も、春蘭は知らない。────いまでも。

 それから春蘭の名を聞いた彼は瞠目(どうもく)した。
 命の恩人は()しくも慕って止まない兄の娘────自身の(めい)であったのだ。
 そんな奇跡のような事実に、思わず小さく笑みがこぼれる。

(もう二度と、兄上や鳳家に関わることなどできないと思っていたのに……)

 何たる幸運なのだろう。
 “夢幻”として、彼女をそばで守ることができるかもしれない。
 嬉しかった。この先ずっと、自分が叔父であることを打ち明けられないとしても。

『……春蘭。ありがとう』

 命を救ってくれて。
 身の潔白を信じてくれて。
 何より、自分の前に現れてくれて。
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