桜花彩麗伝

「……もう行くよ。会うのはきっとこれきりだ」

「え」

 思わぬ言葉に戸惑う。金輪際(こんりんざい)もう会えない、という意味だろうか。
 すっと体温が急速に下がったような気がした。
 不安そうな面持ちの彼女に、光祥は優しく微笑みかける。

「後宮に入るんだから会えなくなるのは仕方ないさ。寂しいけど、これでお別れだ」

 ふわ、と春蘭の頭を撫でる。
 紫苑がこの場にいたら一瞬のうちに払いのけられただろうな、と彼は心の中で苦笑した。

 しかし、最後くらいは許して欲しい。
 この想いとともに彼女のもとを去るから────。
 二度と、会わないから。

「光祥……どこか行っちゃうの?」

 今度は彼が目を見張った。
 どうして分かったのだろう。黙って消えるつもりだったのに。
 春蘭の問いに対して否定も肯定もできず、曖昧に笑う。

「…………」

 ────彼が“ひとり”になった十歳の頃、誰も自分を知らないところへ逃げたいと思っていた。
 そのためには都の外に、さらにはこの国自体からも出る必要があるのではないかとさえ思っていた。

 しかし、結果としてそれは勘違いであった。
 世界は思うより広く、一歩外へ出ただけで、誰ひとりとして自分を知らなかったのだ。
 すれ違う誰も足を止めない。目もくれない。
 “家”の中が世界のすべてだった光祥には、何もかもが新鮮であった。

 そんな“外”での生活に魅入られたのが最初だった。
 危険だと分かっていながら、桜州に、雛陽に留まったわけはそれだけだ。

 しかし、春蘭に出会って理由が変わった。
 彼女がいるから、ここにいたいと思うようになった。
 ……だが、いまは事情も変わってしまった。
 ひっそりと慕うことも、彼女のそばにと願うことも、もう許されない。

 だから、どこか遠くへ行こうと思った。
 今度こそ、誰も知らないところへ。

「会えなくても、僕はきみの幸せを願ってるから。また気が向いたら桜州へ来るよ。……じゃあね」

 引き止められないうちに、名残(なごり)惜しくなる前に、断ち切るように目を伏せた光祥は(きびす)を返す。
 それからは、彼女に名を呼ばれても振り返ることなく歩いていった。

(……さよなら、春蘭)
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