桜花彩麗伝
◇
「航季さま」
執務室で剣を磨いていた航季の前に、影のような男が疾風のごとく現れた。
男は床に片膝をつき、頭を垂れる。
「戻ったか、黑影。何か収穫は?」
命じられた監視の成果を口にする。
「あのあと例の娘を尾行しましたが、王専属の護衛に阻まれ……一度見失いました」
「嘉菫礼か。やはり密かに護衛をつけていたんだな」
「ただ、夕刻に往来で同じ娘を見かけました」
ほんの偶然ではあったが、お陰で露呈したことが多々あった。
「例の娘は、見慣れないある男と親しげに話していました」
はじめは彼の身なりからして奉公人か何かだと踏んだが、対等なやり取りやその身に触れることが許されていたことからして怪訝な思いが膨らんでいった。
もしかしたら、特別な間柄なのかもしれない。……それも、身分を越えての。
さらに驚くべきは娘の正体であった。
ひとり帰路についた彼女が潜った屋敷の門は、なんとあの鳳家のものであったのだ。
航季は驚愕に目を見張ったが、最悪の想定をしていただけに受け入れるに足りた。
息を吐くように嘲笑する。
「……は、侮れない女だな」
もはや感心するほかない。
悠景に朔弦に王までもを取り込んだというのに不足とは、とんでもない妖婦である。
そこには何かほかの意図があるのだろうか。
「容燕さまに報告しますか」
「いや、とりあえず必要ないだろ。どうせ妃選びで潰すんだしな」
「……承知しました」
◇
煌凌が宮中を散策していると、今日はなぜか至るところで井戸端会議が開かれていた。
実際に井戸の周りで、というわけではないが、内官や女官たちが寄り集まり、ひそひそと何やら話し込んでいるのだ。
彼ら彼女らは煌凌の姿を認めると、さっと話を区切ってうやうやしく頭を垂れるが、王が過ぎ去ると再びざわめき出す。
清羽が訝しげに振り返ると、視線がぶつかった。
もしや煌凌に関する話題なのだろうか。
「陛下……。何だか宮中は妙な雰囲気ですね」
それには同行している菫礼も同感であった。
話の中身は知れないが、彼らの視線はあまり快くない。
煌凌も何となくそれを感じていた。
「……うむ」
しかしながら、自分にまつわる芳しくない噂話をされること自体はさほど珍しくないため、今回もそんなことだろうと高を括っていた。
いちいち気にしていては王宮で暮らしていくことなどできない。
「わたくしが聞いて参ります」
しゃんとして清羽が宣言し、王に一礼すると背を向ける。
「あ、いや。よいのだ、清羽……」
止める間もなく、彼の小さな身体は兎のごとく遠ざかっていった。
思わず菫礼を見やると、彼は肩をすくめて苦笑している────実際のところ、見かけの表情に変化はなかったが、煌凌には分かった。
「航季さま」
執務室で剣を磨いていた航季の前に、影のような男が疾風のごとく現れた。
男は床に片膝をつき、頭を垂れる。
「戻ったか、黑影。何か収穫は?」
命じられた監視の成果を口にする。
「あのあと例の娘を尾行しましたが、王専属の護衛に阻まれ……一度見失いました」
「嘉菫礼か。やはり密かに護衛をつけていたんだな」
「ただ、夕刻に往来で同じ娘を見かけました」
ほんの偶然ではあったが、お陰で露呈したことが多々あった。
「例の娘は、見慣れないある男と親しげに話していました」
はじめは彼の身なりからして奉公人か何かだと踏んだが、対等なやり取りやその身に触れることが許されていたことからして怪訝な思いが膨らんでいった。
もしかしたら、特別な間柄なのかもしれない。……それも、身分を越えての。
さらに驚くべきは娘の正体であった。
ひとり帰路についた彼女が潜った屋敷の門は、なんとあの鳳家のものであったのだ。
航季は驚愕に目を見張ったが、最悪の想定をしていただけに受け入れるに足りた。
息を吐くように嘲笑する。
「……は、侮れない女だな」
もはや感心するほかない。
悠景に朔弦に王までもを取り込んだというのに不足とは、とんでもない妖婦である。
そこには何かほかの意図があるのだろうか。
「容燕さまに報告しますか」
「いや、とりあえず必要ないだろ。どうせ妃選びで潰すんだしな」
「……承知しました」
◇
煌凌が宮中を散策していると、今日はなぜか至るところで井戸端会議が開かれていた。
実際に井戸の周りで、というわけではないが、内官や女官たちが寄り集まり、ひそひそと何やら話し込んでいるのだ。
彼ら彼女らは煌凌の姿を認めると、さっと話を区切ってうやうやしく頭を垂れるが、王が過ぎ去ると再びざわめき出す。
清羽が訝しげに振り返ると、視線がぶつかった。
もしや煌凌に関する話題なのだろうか。
「陛下……。何だか宮中は妙な雰囲気ですね」
それには同行している菫礼も同感であった。
話の中身は知れないが、彼らの視線はあまり快くない。
煌凌も何となくそれを感じていた。
「……うむ」
しかしながら、自分にまつわる芳しくない噂話をされること自体はさほど珍しくないため、今回もそんなことだろうと高を括っていた。
いちいち気にしていては王宮で暮らしていくことなどできない。
「わたくしが聞いて参ります」
しゃんとして清羽が宣言し、王に一礼すると背を向ける。
「あ、いや。よいのだ、清羽……」
止める間もなく、彼の小さな身体は兎のごとく遠ざかっていった。
思わず菫礼を見やると、彼は肩をすくめて苦笑している────実際のところ、見かけの表情に変化はなかったが、煌凌には分かった。