桜花彩麗伝
莞永の抗議も虚しく、先輩役人はひらひらと手を振りながら“禁”の紐を潜り、早々に現場から引き揚げていってしまう。
……何ということだろう。莞永は愕然とした。
彼には官衙の役人たる矜持がないのだろうか。
「……妙だ」
不意にぽつりと背後で朔弦が呟いた。
呆然と立ち尽くしていた莞永は、はっと我に返り振り返る。
彼は被害者の傍らに屈み、何やら記録書と遺体を見比べていた。
渋々ながら莞永もひとまずそのそばに寄ってしゃがみ込んでみる。
「えっと……朔弦、くん? 僕は晋莞永っていうんだ。官衙勤めの役人だよ。実は、きみとは同い年なんだよね。二年前の国試のときから、凄いなってずっと思ってて────あれ?」
少しばかり照れくさそうに話しかけていた莞永だったが、ふと横を見ればいつの間にやら朔弦の姿は消えていた。
どこへ行ったのだろう。
きょろきょろと周囲を見回すと、とっくにこの場から離れ、庭先に集められた三人の奉公人たちと話をしているのが見えた。
何ということだろう。莞永は再び愕然とした。
あの天才男には、人としての協調性がないのだろうか。
「ちょっと待ってよ! いま話してたのに」
「静かに。……それで、何か変わったことは?」
慌てて駆け寄った莞永だったが、あっさりと冷たくあしらわれる。
朔弦は淡々と奉公人への質問を続けており、言われた通りに口を噤むほかなかった。
「そうですねぇ……」
四十ほどの奉公人の女は、顎に手を当て考え込む。
昨晩のことを思い出している様子だった。
「確か、亥の刻に外から物音が聞こえたような」
「どんな音だ?」
「うっすらと聞こえただけですけど、何かと何かがぶつかるような」
「そのとき、おまえたちは何をしていた?」
「わたしとこの子は離れで針仕事をしておりました」
女は、隣に立つ十代くらいの若い娘を指して答える。
朔弦は記録書を見た。
ふたりは親子のようだ。
その情により何らかの情報を隠匿していたり、互いを庇い合っていたりする可能性はあるものの、ひとまずふたりとも現場にいなかったという主張のようである。
「おまえは?」
朔弦はさらに横にいる男に尋ねる。
二十代くらいの若いその彼は、きつく両手を握り締めていた。
痛ましい事件に相当参っているようだ。莞永は思わず同情してしまう。
「僕は……厨で食事をとってました。朝から何も食べずに働き詰めだったので、腹が減ってて」
顔面蒼白の彼に、莞永は労るような眼差しを向ける。
まさかその間に庭院であのような惨事が起きているとは、夢にも思わなかったことだろう。
「……ちなみに、あの死んだ男はこの家とどんな関係がある?」
朔弦の問いに彼女たちは顔を見合わせた。
困ったような様子だが、躊躇するようでもあった。
何かを知っていることは間違いない。朔弦は目を細めた。
「案ずるな。情報の出どころは決して明かさない」
そのひとことに安堵したらしいのが莞永にも見て取れた。
ややあって、四十ほどの女が口を開く。
「実は……あの方はお嬢さまの婚約者だったのです」
「婚約者!?」
仰天した莞永は思わず聞き返した。朔弦の手にある記録書を覗き込む。
令嬢は十七歳だと記されているのに対し、被害者である貴族の男の齢は五十。
どう考えても釣り合わない。
正妻ではなく、妾にしようとしていたということだろうか。
そんな莞永の戸惑いは、その顔に全面的に表れていた。
言わんとすることを察した女が続ける。
「妾ではなく、後妻に迎えようとしていらしたんです。あの方の奥さまは既に亡くなっていて……。わたしも詳しいことは存じませんが、あの方がお嬢さまにひと目惚れなさったとか」
「お嬢さまにはそれが不本意だった、とか……?」
親子ほど歳の離れた男に見初められ、婚姻を迫られたことを、令嬢は受け入れられなかったのかもしれない。
確かめるように尋ねた莞永に対し、女は首を横に振った。
「いえいえ、そんなことないですよ。むしろおふたりは仲睦まじくてねぇ……。最初こそ同情したものですけど、お嬢さまも満更でもなかったみたい」
「婚礼の日取りまで決まってたんですよ。その折には、母が介添えをする予定でした」
奉公人の親子が口々に言う。
朔弦と莞永は思わず視線を交わした。何とも意外な情報である。
望まない婚姻を強いられたのであれば動機として十分であるように思われたが、令嬢も前向きであったとなると、また話が変わってくる。
「不本意、で言うなら……」
おずおずと男が口を開く。
「旦那さまの方が婚姻に納得いっていないご様子でした」
莞永は再び記録書を覗いた。
旦那さま、すなわちこの屋敷の主の齢は四十六と記されている。
「そりゃそうよ! 自分より年上の婿なんて嫌でしょう。奥さまを早くに亡くし、手塩にかけてお育てになったお嬢さまがそんな男と婚姻だなんて……」
女が目眩を覚えたかのように額に手を当て、たたらを踏んだ。
自分の娘に置き換えて想像してみたのだろう。
「悪い方じゃなさそうでしたけどね……」
娘の方が呟く。それには女からも男からも反論は出なかった。
被害者の男の印象は一様によいらしい。
莞永は腕を組み、眉を寄せる。
現状、疑わしいのはこの屋敷の主であろうか。
被害者の男を殺害する動機もある。
娘との仲を裂けないのであれば、と強硬手段に出たのかもしれない。
同じ貴族としてのしがらみのせいで婚姻を強く拒絶することができず、やむなく────。
「…………」
真剣に推理する彼に構わず、さっさと踵を返した朔弦はどこかへ歩いていってしまう。
不承不承とはいえ相棒に抜擢された以上、ともに行動するほかないというのに。
莞永と協力する気などは、とことん持ち合わせていないようだ。