桜花彩麗伝

 彼女は困惑したような表情を浮かべた。
 繰り返されたその言葉に、莞永も同じような表情で朔弦を見やる。

 亥の刻と言えば夜更けだ。眠っていても何ら不自然ではない。
 いったい何に違和感を覚えているのだろう。

「では、なぜ……彼はこの屋敷にいたんだ?」

 令嬢はわずかに息をのんだ。
 莞永もはっとする。その点は確かに妙であった。

 令嬢に会いにきたわけではないのなら、会っていないと言うのなら、被害者の男がここにいること自体がおかしい。

 あるいは男が密かに会いにきたところ、令嬢と会うより前に何者かに殺害されてしまったのだろうか。

 令嬢は、さっと下を向いた。
 視線を泳がせ、言葉を探す。

 事実を口にするか、白を切るか、それであればどのような嘘をつくか、駆け巡る動揺に惑いながらも瞬時に頭の中で取捨選択をした。
 やがて、小さな声で言う。

「ごめんなさい。……嘘をつきました」

 莞永はやや瞠目したが、朔弦はいたって平然としていた。予想通りとでも言いたげである。
 むしろ、そうでなくてはおかしい。違和感があるのだから。

「本当は、昨日……彼はわたしに会いにきたんです。確かに会いました。でも、亥の刻ではなくて戌の刻(午後八時頃)の話です」

 莞永は思い悩むように顎に手を当てた。
 ということは、令嬢と男が会っていたのは、奉公人が物音を聞いたときより半時(約三十分)から一刻(約二時間)ほどの幅があることになる。

 その時刻に男が生きていたのであれば、亥の刻の物音は、もしや男が殺害されたものであろうか。

 亥の刻が死亡推定時刻と仮定すると、男は令嬢と会ったあとに殺害されたのだ。

「なぜ、嘘をついたんです?」

 莞永が控えめに問う。
 令嬢は険しい表情を浮かべた。

「会っていることがばれたら、父が激怒するからですよ! ……わたしは彼を本当に愛してるのに、父は分かってくれない。結ばれない運命なの。結ばれちゃいけない」

 真に迫る様子に圧倒された。
 もうこれ以上、嘘をついているようには見えない。
 殺害された男への気持ちは本物なのだろう。
 奉公人たちの証言とも齟齬(そご)はないため、彼女の言葉は整合性が取れている。

「昨晩、男はどんな様子だった?」

 淡々と朔弦は尋ねる。
 彼の口からはことごとく必要最低限の言葉しか出てこない。
 生まれてこの方、気遣いなどしたことがないのではないかと思えるほど淡白だ。というより、ただただ冷淡だ。

 莞永はこっそり朔弦を睨んだ。
 少しは彼女の心痛を汲むべきだと、非難の意味を込めて。

「普通……です。いつも通り」

 令嬢は再び膝の上で両手を握り締めながら答えた。

「と、言うと?」

「普通に、話していて……“愛してる”って、わたしを抱き寄せて────」

 令嬢は言葉を切った。込み上げてきた感情に負けてしまったようだ。
 ひどく顔色が悪かった。両手で顔を覆うと、全身を震わせながら俯く。
 血の気のない肌は赤い衣と対比し、余計に青白く見える。

 どうするべきか莞永は惑った。あいにく、差し出せるような手巾は持ち合わせていない。
 一方、小さく息をついた朔弦はそっと立ち上がる。

「辛いだろうに、思い出させて悪かった」

 平板な声でそれだけを告げると、客間から出ていってしまう。
 円卓の上の茶から昇っていた湯気は既に消えている。すっかり冷めてしまったようだ。

 莞永は朔弦の出ていった扉と、項垂れて震える令嬢を見比べた。
 間を埋めるように、自分に出された茶を一気に飲み干す。

「すみません、失礼します。どうかご無理なさらずに」

 そのくらいしかかける言葉が見つからない。
 そそくさと客間をあとにし、庭院へ出た朔弦に追いつく。

 ────この一連の流れは、今日だけで何度目だろう。
 莞永はそんなことを思ったが、先ほど見た光景への意外さの方が(まさ)り、感心したように言う。

「朔弦くん、優しいところもあるんだね」

 最終的に令嬢を気遣っていたのは、たとえ形の上でのことに過ぎないとしても少し見直した。
 冷淡であることには変わりないが、心の奥の奥の奥の方には、人間らしい優しさというものを持ち合わせているのかもしれないと思った。

「……妙だ。本当に」

 朔弦は当然のように莞永の言葉を無視した。
 そのことにもすっかり慣れた莞永は、今日また何度目か分からないその台詞に、律儀に首を傾げる。

「今度は何が妙なの?」

「あの令嬢は、まだ嘘をついている」

 そう断言した彼に驚いてしまう。まだ嘘をついているとは、にわかに信じ難い。
 彼女の態度はいかにも本当らしかったが、どの部分に疑わしい点があったというのだろう。

 それにしても、先ほどからこの手の問いには真っ当な返事をしてくれていない。
 もう一度尋ねようと莞永が口を開いたところ、同時に朔弦が動き出した。

 反射的に目で追う。
 母屋から出てきた、貫禄のある男のもとへ向かっているようだ。
 仕方なく口を閉ざし、莞永もついていった。

「おまえが屋敷の主だな。二三、尋ねたいことがある」

 男は朔弦をまじまじと見つめ、怪訝な顔で凝視する。
 莞永はその反応の理由が分からなかったが、つられるように朔弦を見やり、はたと思い至った。

 彼は官服を着ていないのだ。そのくせ、ぞんざいなもの言いをしている。
 そのせいで訝しがられているにちがいない。

 否、官服を着ていればぞんざいな口調が許されるわけでもないし、どう考えても男の方が朔弦より年上で官位も上なのだが。

「申し訳ありません! 彼はちょっと変わってまして……。こう見えても錦衣衛の者ですからご安心を」

 莞永は慌ててとりなすように言った。
 “変わっている”と評されたことに朔弦はどこか不服そうであったが、反論はしなかった。
 自覚があるのではなく、単に時間の無駄だと判断したに過ぎない。

 莞永の丁寧な態度を受け、不信感が中和されたのか男は警戒を緩めつつ口を開く。

「事件を嗅ぎ回っている連中か。……ふん、事件とも言いたくないな」

 心底不機嫌そうであった。吐き捨てるように言う。

「どういうことですか?」
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