桜花彩麗伝

 ────令嬢には、死んだ婚約者とは別に、愛する恋人がいた。
 しかし、この強引な婚姻を拒む術がなかった。

 官吏として権威を有する父親でさえ拒絶できなかったのだ。
 その娘に過ぎない彼女にどうにかできるわけもない。
 どうしても嫌だと言うのであれば、どちらかが死ぬしかなかった。
 一方が死ねば、自ずと縁談も反故(ほご)にできる。

 しかし、本当の恋人と結ばれるためには令嬢が死ぬわけにはいかなかった。
 だから、殺した────婚約者の方を。
 父親が屋敷を空ける日と刻限を狙い、今回の犯行に及んでみせたわけである。

 莞永はそう推理したが、朔弦はどこか腑に落ちないような様子であった。物憂げに目を伏せる。

「……筋は通るが、完璧じゃないな」

「え? どの辺が?」

「おまえは今回の事件を計画的な犯行だと考えている。だが、これは衝動的なものだ」

 犯人は間違いなくこの屋敷の人物である。
 綿密な殺害計画を立てていたとすれば、真っ先に疑われるような殺し方はしないだろう。

 つまり、この屋敷を犯行現場に選ぶとは考えにくい。
 だからこそ、衝動的なのである。

「なるほど……」

 ────しかし、令嬢には現に被害者を殺害する動機がある。
 仲睦まじいふりをしながら、虎視眈々(こしたんたん)とその機会を狙っていたのだろう。

 そして昨晩、ついに好機が巡ってきた。
 父親が屋敷を空けることとなったため、令嬢は密かに男を呼び出した。
 彼女に惚れ込んでいる男は、何ら疑うこともなく、むしろ舞い上がるような気持ちで現れたことだろう。

 そこで令嬢は不意を突き、何らかの重いもので殴殺した。
 ……ある意味“計画的”であり、ある意味“衝動的”でもある、それが事件の真相ではないのだろうか。

 しかし、朔弦が言っているのはそもそもそんな次元の話ではなかった。

「そもそも、あの令嬢に殺意はない」

「えっ!?」

 それでは、色々な前提が崩れていく。
 莞永は信じられない思いで目を見張るが、彼は例によって表情を変えない。

()()()衝動的なんだ。……まあ結果的に、令嬢は殺していないわけだが」

「?」

 莞永にはわけが分からなかった。まったくもって意味不明で理解不能である。
 朔弦が何に気づき、何が言いたいのか、推測することも叶わない。

「わ、分かるように言ってくれないかな」

「……つまり、後頭部の傷を負わせた犯人があの令嬢なんだ」

 端的な言葉にまたしても驚いてしまう。
 “令嬢に殺意はない”とつい先ほど言っていたのに、いったいどういうことなのだろう。

「令嬢がこの男を呼んだんじゃない。この男が押しかけてきただけだ。父親の留守を嗅ぎつけ、勝手に忍び込んだ」

 朔弦は冷然とした眼差しを遺体に注ぎながら、滔々(とうとう)と語っていく。

「そして、ここで口論にでもなったんだろう。執拗に言い寄り、迫ってきた男を、令嬢は反射的に突き飛ばした。運悪く、男は足元をぐらつかせた。後ろに倒れ、また運悪く、そこにあった植え込み周りの石に後頭部を打ちつけた」

 ありありとその光景が頭に浮かび、莞永は顔をしかめた。
 すなわち遺体にある後頭部の傷は、不慮の事故によるものであったわけだ。

「ちがう……!!」

 背後から割って入るように、唐突にそんな声が響いてきた。
 ふたりはほとんど同時に振り返る。

 そこにいたのは、最初の頃に話を聞いた奉公人の男であった。
 決然たる表情でこちらを睨みつけている。
 莞永は戸惑いを顕にし、朔弦はすべてを悟ったような表情を浮かべた。

「お嬢さまじゃありません。お嬢さまは、何も悪いことはしてません!」

 強く訴えかけられるが、朔弦はそれらをすべて無視する形で続ける。

「被害者はそこで一旦意識を失った。令嬢は動転し、男の生死を確かめることなくこの場から逃げた。殺してしまったかもしれない、とおののき震えながら」

「ち、ちがいます……!」

「令嬢が部屋へ戻ったとき、彼女の本当の恋人が部屋を訪ねてきた。彼にだけはすべてを打ち明けたのだろう。恋人は取り乱す令嬢を宥めてから、ひとりで庭へ出た。男がどうなったのか確かめるために」

「ちがう……!」

「そのとき、被害者はまだ生きていた」

 怯みながらもかぶりを振る彼に、追い討ちをかけるように朔弦は続ける。

 ────意識を取り戻した男はよろめきながら立ち上がり、そこにいた令嬢の本当の恋人に助けを求めた。
 半襟に血が垂れて染みていたのは起き上がった証拠だろう。

「恋人は男の生存に戸惑ったが、愛する令嬢が人殺しにならずに済んだことにほっとしてもいた。だが、被害者は禁句を口にしてしまった」

「……っ」

「令嬢への恨み言をぼやきながら、この件で令嬢を脅迫しようと画策したんだ。自分を殺そうとした女に対して、もはや恋情など消え失せていたのだろうな。令嬢の必死の防衛だったのに、自尊心を傷つけられた男は曲解し、見当ちがいな恨みを抱いた」
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