桜花彩麗伝

 淡々と語り続ける朔弦を、彼は奥歯を噛み締めながら睨めつけた。

「恋人は憤った。もとはと言えば、何もかも被害者のせいだ。この男が令嬢につきまとうから、婚姻を強いるから、彼女は不幸になっているんだ。それなのに、男はまるで自分のことしか考えていない。……図々しく身勝手な男の態度に、恋人の我慢は限界を越えた」

「……!」

「手近に転がっていた石か何かを引っ掴み、感情の赴くままに振りかぶった。思いきり男の頭を殴った。それは額に直撃し、男はうつ伏せに倒れ────そして、死んだ」

 莞永は思わず遺体を見下ろした。
 そのときの姿勢のまま、怒りの制裁を加えられた状態のまま、苦悶の表情で硬直している。

「ちがう……。ちがうちがうちがう!」

 男は両拳を強く握り締め、肩を震わせた。
 俯いていた顔を勢いよく上げる。

「お嬢さまは何もしてない! 僕だ。ぜんぶ僕がやった。僕が殺した!」

 莞永はようやく理解した。
 この男こそが、令嬢の本当の恋人だったのだ。

「…………」

 ただただ圧倒されてしまう。
 驚くほど鮮明に、朔弦の言葉通りの光景が頭に浮かんだ。
 何の違和感も引っかかることなく、すんなりと飲み込める。

 それは、朔弦が違和感のひとつひとつを見落とさずに取り除いた結果であった。
 逐一指摘していた“妙”な感覚に、妥協を許さなかった成果である。

『……わたしは本当に彼を愛してるのに、父は分かってくれない。結ばれない運命なの。結ばれちゃいけない』

 令嬢のその言葉は、決して嘘ではなかった。
 “彼”が指す人物を誤認していただけである。死んだ婚約者ではなく、奉公人の男のことであったわけだ。

 結ばれないのは、身分ちがいの恋だからだろう。
 貴族の娘と下男では、あまりに釣り合わない。
 令嬢の父親は、娘を中年の貴族に嫁がせることも認めたくなかったが、下人に嫁がせることもまた納得できなかったのであろう。

 誰にも認められない関係だった。
 決して明るみに出せず、許されず、当然祝福されることもない婚姻であった。

 だからこそ男の死に際し、彼らは密かに(ちぎ)りを結んだのだ。
 ふたりの間だけで、ひっそりと。

「お願いします、僕を捕まえてください。この人を突き飛ばして気絶させたのも、石で殴ったのも僕です。お嬢さまは何も知りません……!」

 男はその場に膝をつき、朔弦と莞永に懇願した。
 朔弦はやはり表情を変えることなく、黙って見返していた。

 一方の莞永は眉を下げ、唇を噛み締める。
 締めつけられるように胸が痛い。あまりにも切なく、悲しい真実であった。



「……もう、いい。もうやめて」

 套廊(とうろう)の方から声がした。目をやると、そこには令嬢がいた。

 客間で話を聞いたときとは打って変わって、表情は毅然と引き締められ、震えも止まっている。
 しかし、あれが芝居であったというわけではないのだろう。
 いま思えば、殺してしまったかもしれない、という恐怖と罪悪感を必死でこらえていたのだと分かる。

 奉公人の男は、あえて犯行を令嬢に黙っていたのではないだろうか。
 余計な心労を負わせる羽目になり、何より、令嬢が彼を庇えば罪に問われるからだ。
 頃合いを見計らい、自白するつもりでいたのだろう。
 莞永はますます切ない気持ちになった。

 令嬢は足袋のまま前庭へ下り、朔弦の前に立つ。
 その頬には涙が光っていた。恋人の自白を陰で聞いていたのだろう。

「お嬢さま……」

「あなたの言う通りです。昨夜、わたしとこの人は口論になり、彼に無理やり迫られて……。わたしはその手を振りほどいたんです。そしたら────」

 令嬢は指先を遺体に向ける。莞永はその先の言葉を汲み取った。
 朔弦の言葉通りの展開が訪れたのであろうと察するに余りある。

 ────掴んでいた手を振り払われ、よろめいた被害者は倒れ込み、後頭部を強打した。
 気を失い、微動だにしない。石に鮮血が広がっていく。

「頭が真っ白になった。怖くて、焦って、震えが止まらなかった。わたしが殺してしまったんだと思って、逃げるように部屋へ戻り、閉じ込もっていたんです。そこへ、彼が来てくれて……」

 令嬢は奉公人の男を指し示した。

「すべて打ち明けました。彼は泣きじゃくるわたしを宥め、庭を見てくると言って」

 何もかもが、実に朔弦の言う通りであった。その先の展開はもはや言うまでもない。

 令嬢は嗚咽するように、再び涙を流す。
 男も目に涙を滲ませながら、苦しそうに顔を歪めていた。

 それが、真相であった。
 この事件において、悪意などどこにも存在しない。
 自分を、そして恋人を、守ろうとした結果に過ぎない。

 何となく空気が薄くなったかのような息苦しさを覚え、莞永は震えるような呼吸をした。
 明かされていく事実に、いつの間にかのめり込んでいた。

 目の当たりにした、決して大団円とはいかない真相と、いかなる事態にも泰然たる態度を崩さない朔弦の姿に、すっかり気圧されてしまう。
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