桜花彩麗伝
「虞珂雲さま、寧璃茉さま」
名を呼ばれたふたりの令嬢がそれぞれ立ち上がる。
いずれも先ほどの出来事に対する衝撃が未だ拭えていない気配がある。
「楚芳雪さま」
席を立ち、春蘭のそばにいた芳雪は自分の席へと戻った。
「蕭帆珠さま」
同じく春蘭のもとへ向かっていた帆珠も、苛立たしげなため息をひとつこぼすと、切り替えたように席へ戻る。
「そして、鳳春蘭さま」
最後に呼ばれた春蘭はそっと立ち上がった。
先導する宮官のあとを、呼ばれた順に歩いていく。
案内されたのは、淑徳殿よりもさらに小さな殿であった。
部屋の中には卓子と椅子がひとり一席ずつ用意されており、卓上には鏡が置かれていた。
「どうぞ、おかけに」
宮官が促すと、先ほどの順番で席が埋まる。
中央を通路として挟み、間隔を開けふたりずつ横並びであるため、春蘭は自ずと一番後ろでひとりとなった。
偶然だが、位置に恵まれた。
ここからであれば、色々な様相を見ておけるだろう。
全員が席に着くと、宮官のほか、五人の女官が殿内へと入ってきた。
彼女たちは手にしていた金製の盥と白い手拭いを、それぞれの卓子に置いていく。盥の中には水が張られていた。
「手拭いを浸し、お顔を拭ってください。終わり次第、一次審査の会場へご案内いたします」
そう言い残すと宮官は下がっていき、五人の女官たちは部屋の後方へ控えた。
令嬢たちはそれぞれ言われた通りに手拭いを水に浸し、丁寧に顔を拭い始める。
恐らくは人相の審査にあたって化粧を落とさせるための作業だろう。
春蘭も手拭いに手を伸ばし、盥の中に浸した。
絞ったそれを顔の前に持ってきたとき、ふと違和感を覚える。
独特の香りが漂ったような気がした。
甘く渋いような微かな香り────思わず手を止める。
手拭いを持っていた右手が一瞬、ぴりっと痺れた。
痛みと痒みの中間のような妙な感覚だが、見たところ異変はない。
周囲を見回しても、ほかの令嬢たちは何ごともなく手拭いで顔を拭っていた。……おかしい。
「芳雪」
すぐ前の席に座っている彼女を呼ぶ。
「どうかしたの?」
「これ、何か変じゃない……?」
きょとんとしながらも春蘭に配された盥を覗き込んだとき、怪訝そうに眉を寄せた。
「ん……? 何か香りがするわ」
自分に配された盥からは何のにおいもなく、何の変哲もない普通の水だ。
しかし、春蘭の方は独特の香気を放っていた。