桜花彩麗伝

「そうです! 微かでしたけど、そんな香りだったと思います」

 春蘭は強く頷いた。
 やはり、あのとき覚えた違和感は間違いではなかったようだ。
 あれはいったい何だったのだろう。

「どういうことだ? 香りが関係あるのか?」

「……ええ、毒を仕込まれたのかと」

「毒!?」

 悠景は思わず聞き返した。
 春蘭も不穏な単語に息をのむ。

「恐らく(うるし)です。正確に言えば毒ではありませんが、肌に触れると炎症が起こります」

 朔弦は冷静に言い放った。
 盥の中の水に、漆の枝葉や樹液から抽出した汁を混ぜ込まれていたのだろう。

「だが、何でいまさら……。触れたのは昨日なんだろ?」

「漆は症状が遅れて出るのです。────これから進行するとひどくなり、そのあと自然治癒するだろうが、激しい痒みを伴う……。発疹を掻けば水疱(すいほう)ができ、ますます悪化する」

「どうすれば……」

「瑛花宮にも宮殿にも薬は持ち込めない。だから、ひとまず冷水で洗う以外にない」

 塗布剤であろうと煎じ薬であろうと、いかなる薬材も持ち込みが禁じられている。
 また、候補者の外出も禁止されているため、医院にも施療院にもかかれない。

「だが、そう心配するな。水に溶かされていたのなら、それほど重くはならないはずだ」

 漆の汁は水で薄まっていたことだろう。炎症も軽く、治癒にかかる時間も短く済むはずである。
 また、そもそも漆に対しては薬も対症療法でしかないため、使えないからと神経質になる必要はない。

「それはよかった。痕も残らないよな?」

「はい、仮に掻いたとしても痕は残りません。苦痛は長引きますが」

 春蘭は両のてのひらを見下ろす。
 紅斑(こうはん)はものものしいが、知識豊富な朔弦のお陰で随分と気持ちが軽くなった。

「ありがとうございます……」

「……わたしは何もしていないし、礼なんて言っている場合ではないだろう」

 ぴしゃりと告げられる。

「そうだぞ、春蘭殿。症状に心配がいらないとなれば、問題はひとつだろ」

 ────“誰がやったのか”。

 普段は明朗(めいろう)な彼の、憤りを滲ませた低い声が、やけに重く心に沈み込んできた。
 言葉の裏に何者かの悪意をはっきりと感じ取ったからだ。

 女官の手違いでも、漆の仕込まれた水がたまたま当たったわけでもなく、敵意を持った何者かが、明確に自分を狙っているのだと悟る。

「蕭帆珠か太后さまが妥当でしょう」

「ほかの候補者って可能性は?」

「一次審査のあとならばともかく、前ならば春蘭を狙う理由はありません」
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