桜花彩麗伝



 戌の刻(午後八時頃)を過ぎると、瑛花宮は大人しくなった。
 令嬢たちによる談笑は至るところで行われているが、面会時間ほどの賑やかさはない。
 夕食を済ませた春蘭はその合間を縫い、帆珠の部屋を(おとな)った。

「……何よ、何か用? あんたに構ってる暇なんてないんだけど」

 扉を開けるなり不機嫌そうに腕を組み、顔をしかめる。
 口ではそう言うが、もはや直接手を出してくる気力は失せているようだ。

「あなたに返すものがあるの」

「なに?」

 何も貸した覚えはないが、いったい何なのだろう。
 訝しむ帆珠に、春蘭は花蝶の髪飾りを差し出した。

「こ、これ……! 何であんたが────」

 はっと瞠目(どうもく)し、狼狽えるその反応を見て確信する。
 この髪飾りこそが、第一次審査を突破する足がかりであったのだと。

 同時に帆珠も悟った。
 一次審査のあの結果は、春蘭がこの髪飾りの恩恵を受けたからこそだったのだ。
 思わず奥歯を噛み締める。

「そういうこと……。他人(ひと)のものを盗んで結果を捏造(ねつぞう)したのね。この性悪女」

 春蘭は素知らぬ顔で目を(しばたた)かせた。

「……あら。この髪飾りにそんな効果があったの?」

「な、何ですって」

 思わぬ反撃を食らったように、帆珠は言葉に詰まった。
 自ら墓穴(ぼけつ)を掘ったことに気づいたが、それでも何とか平静を保ち、虚勢(きょせい)を張り続ける。

「盗んだことは事実でしょ! それはわたしが太后さまから(たまわ)ったものなのよ。あんたが汚い真似をしたこと、太后さまと王さまに訴えてやるわ」

「どうやって?」

 帆珠の、春蘭を睨む瞳が揺れた。

「あなたが言う“汚い真似”をわたしがしたと証明するには、この髪飾りがどんなものなのかも明かす必要が出てくるわ。それでもいいの?」

 その場合、不利になるのは太后と帆珠であることは明白だ。
 不正を働いた、と自ら告げるも同義なのだから。

「な……」

 怒りと衝撃で言葉を失った。……何なのだ、この女は。
 どれほど(けな)しても反論ひとつなかったのは、自分を恐れていたわけではなかったのだろうか。
 ただ、姿勢を低くしながらこらえていたに過ぎなかったというのか。

 わななく帆珠の手を取り、そのてのひらに髪飾りをそっと載せる。
 呆然とする彼女は、ただされるがままに受け取った。

「このことは誰にも言わないでおくわ。だからもう、これでおしまい」
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