桜花彩麗伝
     ◇



 春蘭は瑛花宮の東屋で、いつものように書を読んでいた。
 ……“いつものように”できているのか分からない。

 目は文字を追っているが、内容はまるで頭に入ってこず、書をめくる手は小さく震えた。

 何も知らないふりをしろ。
 動揺するな。

 朔弦の言葉に従い、努めて平静を装うが、ふと意識が逸れると、書物(しょもつ)に記された文字がぐにゃりと歪み、墨が溶けて頭の中に流れ込んでくる。
 嫌になるほど染み込んで、思考を黒く染めていく。

 行く末が気にかかって仕方がない。
 無関心なふりをするのは、何もできないよりも辛かった。

「あら、暢気(のんき)なものね」

 唐突にそんな声が飛んできた。
 反射的に顔を上げれば、東屋の柱に腕を組んだ帆珠がもたれかかっていた。

「家が大変だって言うのに」

 彼女は愉快そうに口角を上げ、身を起こした。
 悠然とした足取りで円卓に歩み寄ると、春蘭の向かい側に腰を下ろす。

「ご存知ないかしら? 王妃になるために必死だものね。盲目的になっても仕方ないわよね」

 帆珠は卓の上で頬杖をついた。
 わざとらしい上目遣いで春蘭を挑発する。

「わたしの家に、何かあったの……?」

 本当は帆珠に尋ねたくなどなかった。
 母や兇手(きょうしゅ)の件のように到底受け入れ難いことを聞かされたら、それでも冷静でいられる自信はない。
 帆珠の前で取り乱したりすれば、それこそ彼女の思うつぼなのに。

 春蘭に問われた帆珠は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 嫌な予感しかしない。
 頭の中の黒々とした墨が、濃度を増して広がっていく。

「あなたのお父さまが惨たらしい事件を起こしたのよ。十五年前越しにお母さまの敵を討とうと、虞家と寧家を襲撃したの」

 帆珠が声を落とし、春蘭の耳元で囁くように言った。
 人目を(はばか)り、気を遣ったわけではない。こんなものは狂言に過ぎない。

 しかし、そんなことに腹を立てる余裕はなかった。
 帆珠の言葉は衝撃的な事実であった。

 にわかには信じられない。というより、信じる必要もない。
 父がそのようなことをするはずがないと、春蘭は命を懸けても断言できる。

 しかし、それがいま“真実”という前提で物事が動いている以上、一笑(いっしょう)()して取り合わないという選択肢はなかった。

 心臓が激しく脈打つ。呼吸が止まりそうだった。
 動揺するな、なんて、無理だ。

「何ですって……?」

「もう錦衣衛が動き出してるわ。禁軍に命じて、あんたの屋敷を包囲させてる。あんたの家の者はみんな軟禁状態よ。孤立無援ね」
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