桜花彩麗伝

 春蘭はたたらを踏む。帆珠の“孤立無援”という言葉が不意に脳裏(のうり)を掠めた。
 よろめいた春蘭の肩を、そばにいた芳雪が咄嗟に支える。
 いまのいままで、その存在にまったく気づかなかった。……まるで余裕がない。

「大丈夫?」

 案ずるように芳雪に尋ねられる。
 春蘭は「大丈夫」と答えようとしたが、声が喉に張りついて何も言えなかった。
 こくこくと代わりに頷く。

 ────女官たちはざわめきながらも宮官の言葉に従い、早々にはけていった。
 帆珠はさっさと自室へ引き揚げ、珂雲も何とか立ち上がるとよろよろと歩いていく。

 春蘭は芳雪に支えられながら歩いた。
 ……大丈夫なわけがなかった。

 立て続けに舞い込む悲劇のせいで、まるで悪夢の中に放り込まれたようである。
 現実感がまったく追いつかない。
 このまま追いつかなければ、悪い夢で済んでくれるのだろうか。

「……どれもこれも、蕭家の仕業でしょ?」

 芳雪は小さな声で言った。
 尋ねるというよりも確認するような口調である。
 春蘭は()とも(いな)とも答えなかったが、その沈黙が肯定を意味していた。

「妃選びが中止されたら、一巻の終わりじゃない」

 芳雪はそう続ける。
 春蘭が悄然(しょうぜん)と俯いていた視線を上げた。それは、その通りかもしれない。

 妃選びが中止されれば、勢いに乗った容燕が“帆珠を王妃に”と王に迫るであろう。
 元明という盾を失った煌凌に拒否権はない。

 鳳家が蕭家に飲まれてしまいそうないま、春蘭が王妃の座を勝ち取ることだけが、持ちこたえる唯一の(すべ)に思えた。
 そのための手段が妃選びなのだ。その機会を失うわけにはいかない。
 中止されれば、もう巻き返すことは望めない。

(煌凌……)

 こればかりは、しかし、祈るほかなかった。



 ────その日、部屋の外を行き来する錦衣衛の兵たちによる足音は夜まで続いた。

 慎重な検分(けんぶん)の結果、璃茉はやはり自殺であったことが判明した。
 遺書はなかったものの、状況と境遇からそう断定されたのであった。

 春蘭は寝台(しんだい)に横になったものの、一睡もできなかった。
 絶対に自分や元明のせいではないのに、璃茉の死は自分たちを責めているように感じられてならない。

 半蔀(はじとみ)の隙間から、夜の気配が滑り込んでくる。
 ここへ来て初めて、孤独というものを強く意識させられた。

 深い闇が春蘭を連れていこうと、首にまとわりつく。
 昼間に見た璃茉の姿が思い出される。息が苦しい。
 どうしてこんな事態になったのだろう。
 どうすればよいのだろう。
 どうなってしまうのだろう……。

 渦巻く思考が内側から春蘭を飲み込もうとした。
 何もかもを諦めてしまいたくなる。そうすれば、自分も家族も助かるのではないだろうか。

(……ちがう。だめよ)

 それでは、悪に屈することになる。
 いまここで諦めてしまったら、蕭家の欲を認め、許すことになってしまう。
 蕭家の悪事が正当化されてしまう。

 やはり、最後まで戦うほかにない。

 春蘭は目を閉じ、寝返りを打つ。
 閉じた瞼の裏に、優しい父や紫苑、櫂秦の姿が浮かんだ。
 いっそう心細くなり、思わず布団を握り締める。
 ……帰りたい。みんなに会いたい。
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