桜花彩麗伝

「そんな」

 紫苑は狼狽(ろうばい)した。まさか、王が元明を見捨てるとは思わなかった。
 これまで散々元明に依存し、元明を盾にしておいて、飛び火しそうになった途端、早々に捨てようと言うのだろうか。怒りすら覚える。

「これでいいんだよ」

 元明は普段通りの穏やかな口調と表情を崩さない。
 紫苑はもう彼が何もかも諦めてしまったのかと思った。
 だが、ちがっていた。その目に差した光は確かに途絶えていない。

「これで、家族も主上も守れる……」

 元明が言う。幸いなのは、自分が鳳元明であることであった。
 鳳姓が盾となってくれる。
 冤罪を証明できずとも、せいぜい罷免(ひめん)で済む。
 汚名(おめい)(こうむ)る羽目にはなるが、それ以上の苦難は免れられる。
 娘にも処罰を科せ、と()いられることもないであろう。

 また、煌凌が元明の救済を早々に諦めてくれたお陰で、王が批難されるような展開も避けられた。
 恐らく朔弦が()いてくれたのだろう、と思う。

「旦那さま……」

 紫苑は思わず呟くように呼ぶ。
 そんな彼に背を向け、元明は門の方へと歩き出した。
 足を止めることも振り返ることもなく、しずしずと鳳邸を出ていく。
 それ以上、引き止める余地もなく、紫苑はその背を黙って見送るほかになかった。



 元明が()った直後、屋根の上から何かが降ってきた。
 例によって櫂秦である。

「家族や王を守れる、か。確かにそうかもな」

「……だが、一時しのぎだ」

 結局、元明が罷免されてしまえば、容燕の天下待ったなしである。
 処罰や火の粉を避けられたとしても、その後は余波が続く。
 事態が自ずと好転することはない。
 鳳家は名声を失い、王は増幅した容燕の支配力の餌食(えじき)となるであろう。

「その一時しのぎが大事なんだって」

 櫂秦は紫苑を見やって言う。
 はあ、と大げさなため息をついて見せた。

「おまえさ、頭いいくせに肝心なとこでばかになるよな」

 特に、身内が危機に(ひん)したときがその最たる例である。
 春蘭にしても元明にしても、恐らくは緋茜にしても、その安泰を第一に優先するために、判断力が大いに鈍るのだ。

「何だと?」

「とにかくいまは、連中を有頂天にさせときゃいいんだよ。そしたら油断する。こっちに好機が巡ってくる」

 紫苑の抗議を受けつけず、櫂秦は続けた。

「再起を図れる」

 紫苑が頭をもたげる。
 視線を上げ、彼と目を合わせた。その表情は強気なまま揺らがない。

「悲観的になりすぎなんだよ。まだ誰も諦めちゃいねぇぞ」
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