桜花彩麗伝

 それを聞き、弾かれたように顔を上げる。
 これもまた、仲睦まじいことを見せかけるための発言であろうか。
 他意(たい)があろうとなかろうと、何だか救われた。

 一方の容燕は、不服そうに片眉を上げる。
 苛立ちを募らせているのがひと目で分かる。

「ほう……左様か」

 煌凌は戸惑った。意外ではあるが、容燕が聞き分けよく引き下がってくれたのかと期待した。
 しかし、決してそんなことはなかった。

「主上。……あまり、わたしを怒らせないでいただきたい」

 (うな)るような声で言い、容燕は彼を()めつけた。
 慄然(りつぜん)と居すくまってしまう。瞬きも呼吸も忘れ、金縛りに遭っていた。
 容燕は構わず耳元に顔を寄せ、煌凌だけに聞こえるよう囁く。

「いい気になるなよ、若僧が────。忘れるでない。わたしはいつでも、そなたを引きずり下ろせる」

 硬直する彼に刺すほど冷酷な視線を注ぎ、ややあって目を外した。

「…………」

 恐ろしい双眸(そうぼう)から解放され、そこでやっと呼吸を思い出す。震える息を吐き出した。
 不機嫌そうに咳払いをした容燕は踵を返し、執務室の中へと戻っていった。



 春蘭はふら、とたたらを踏んだ煌凌の背に手を添え、咄嗟に支える。
 よほど息を詰めていたのだろう。

「大丈夫?」

「……すまぬ。情けないであろう」

「まあ……そうね、情けないわ」

 沈みきったような煌凌の言葉に、春蘭はあえて寄り添いはしなかった。
 がーん、と彼の頭に衝撃が落ちてくる。

 事実ではあるが、あまりに正直すぎやしないだろうか。
 痛いほどに現実を突きつけてくるところは、さすが朔弦を師に持つだけある。
 落ち込む彼の両頬を、ぺち、と春蘭は包み込んだ。

「でも、だからこそわたしがいる。思ってたのとはちがう形になったけど、あなたを支えたいの」

 王の権威立て直しを図り、朝廷を粛正(しゅくせい)する。
 当初は、王妃になってそうするつもりであった。
 色々なものが破綻(はたん)し、側室という形にはなったが、その点は変わらない。
 そこへ鳳家の名誉回復という目的も加わったわけだが、何にせよ、春蘭の役割は同じである。

 伏し目がちな煌凌の瞳がわずかに揺れる。頬に添えられた手に、遠慮がちに触れた。
 凍てついていた心が優しく溶けていく────。

 春蘭は微笑んで見せた。
 不安と孤独に染まりきったその双眸(そうぼう)をじっと見つめる。
 ……幼い頃、彼が想っていたであろう少女にはなれないが、今度、その手を取って孤独を埋めるのは、自分の役目なのであろう。
 彼の望むものになる。消えた少女の代わりに。
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