桜花彩麗伝

 正直なところ、歓迎されていない後宮入りであることを重々承知していたため、もっと端の方に追いやられることも覚悟の上であった。
 そもそも、この居所(きょしょ)自体、正三品にあてがわれるようなものではないはずだ。

「主上のお心遣いじゃありませんか? 婕妤さまのことをよっぽど大切になさってるんですよ!」

誇示(こじ)なさりたいのかもしれません。婕妤さまの立場を守るためにも」

 橙華と芙蓉がそれぞれ推測を口にする。
 そうかもしれないが、ただでさえ反感を免れないであろうに、この厚遇(こうぐう)はむしろ批難の的にならないか案じられた。

 そんな春蘭の憂慮(ゆうりょ)など露ほども知らない芙蓉は、表情を輝かせながら促す。

「さ、中へどうぞ。婕妤さまがお戻りになる前に、女官や内官たちと一緒に色々整えたんです」

「そうなの? ……色々って?」

「とにかくお入りください! 絶対に気に入りますよ」

 芙蓉は物理的に春蘭の背中を押した。橙華も何やら事情を知っているらしく、にこにこと顔を綻ばせている。
 楽しげなふたりに催促されるがまま、屋舎(おくしゃ)────“桜花殿(おうかでん)”の中へと足を踏み入れた。



 まず入ってすぐに浅い池が現れ、透き通った水面に蓮が漂っている。
 天井の(はり)から淡い(しゃ)が垂れ、外からの風に小さく揺れていた。
 中央に架かる短い橋を渡ると、その先に伸びている廊下を歩いていく。

 丸窓から柔らかい光の射す廊下の左右にはいくつか部屋がある。
 衣装部屋、侍女用の部屋、といったようなものであろう。
 春蘭は何気なく衣装部屋を覗いた。淡い色味の衣が連なっている。
 どれも繊細で可憐な装飾が施され、絢爛(けんらん)ながら上品な印象だ。

「いかがです? きっと、どれもお似合いになるでしょうね……」

 うっとりと橙華が頬に手を添えた。
 芙蓉と相談しつつ、春蘭に似合いそうな、それでいて春蘭が好みそうだという衣装を選び抜いたのであった。
 些細なことだが、主を喜ばせたい一心で。

「すごく……嬉しいわ。ありがとう」

 心から、春蘭は言った。ふたりの心遣いが染み入るほど嬉しかった。
 ここ数日、目まぐるしさにすっかり飲み込まれていたことに気づかされる。
 ここでなら、少しずつでも以前の日常を思い出していけそうな気がした。

 芙蓉と橙華は顔を見合わせ、作戦成功と言わんばかりに笑い合う。
 ────春蘭がしっかりと現実に、今後のことに、向き合う暇すらなくここへ連れてこられたことは分かっていた。
 だからこそ、この桜花殿だけは、気の抜ける場所にしたかった。

「婕妤さま」

 芙蓉が春蘭を呼び、廊下の最奥(さいおう)にある扉に手をかける。
 橙華がその反対側の取っ手を掴むと、左右両側へと一気に開かれた。
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