桜花彩麗伝

「弱りましたね。いますぐ春蘭殿の位を上げるわけにもいかねぇしな……」

 春蘭は後宮に入ったものの、正式な冊封(さくほう)はまだ済んでいない。
 そんな不安定な状態でいきなり昇格させるのは無理だ。
 正三品・婕妤という地位さえ確立していない。

 ────途方に暮れたそのとき、外から清羽の戸惑ったような声が聞こえてきた。
 思わず顔を見合わると、勢いよく扉が開かれる。そこから現れたのは、何と容燕であった。

「……!」

 煌凌は硬直してしまう。驚いた悠景も瞠目(どうもく)した。
 容燕の顔はいつにも増して険しく、静かに憤怒(ふんぬ)(たぎ)らせているのが見て取れる。
 先ほどの消化不良を発散しにきた、と言わんばかりの態度で、無遠慮に王のもとへ歩を進めた。

「じ、侍中! いくら何でも────」

 咄嗟に(いさ)め、(とが)めようとする悠景の前で、容燕はぴたりと足を止める。

「わたしはいま、すこぶる機嫌が悪い。……これ以上怒らせてくれるな」

 一瞥(いちべつ)もくれず、(しゃが)れた声で言った。
 あまりの迫力に圧倒され、悠景は言葉を失う。

 剣先で喉元を突かれ、圧迫されているような錯覚に陥った。あるいは首元に鋭い刃を添えられているような感覚に。
 息が詰まった。
 これが、煌凌が幼少期から植えつけられている“恐怖心”というものなのだと、理解するのに十分である。
 ()めつけるような視線は「出ていけ」と無言で悠景に命じていた。

 彼は唇の端を引き結び、一礼して下がる。
 情けないが、従うほかに選択肢はなかった。

「主上」

 容燕は煌凌に詰め寄る。
 バン! と叩くように几案(きあん)に手をつき、椅子に座る王を冷ややかに見下ろした。

「玉座が惜しくはないか」

 煌凌の双眸(そうぼう)が揺れた。容燕は淡々と続ける。

「そなたが即位したとき、約束したことを忘れたか」

 煌凌の脳裏(のうり)に、記憶が蘇る。

『そなたはただ、何も考えずわたしの言うことを聞いていればよい。決して逆らうな。そう約束できるのなら、そなたを()()()やろう』

 ────十二年前、母は煌凌の兄である太子を暗殺した罪により、王妃の地位を剥奪(はくだつ)された上で死罪となった。
 その三年後、父は病が高じて崩御(ほうぎょ)
 その後、唯一の王位継承者であった煌凌が即位したわけであるが……。

()()()()()を王に立ててやったのが誰か、忘れたか」
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