桜花彩麗伝

 元明であった。官服(かんふく)をまとい、執務室への道を歩いている。
 朔弦に気がつくと、柔らかい微笑を浮かべた。
 歩み寄った朔弦は一礼をする。

「おはよう、朔弦殿。今日()つのかい?」

「ええ、辰の刻(午前八時頃)までには」

 そうか、と頷いた元明は悠然と後ろで手を組んだ。
 鳳邸で会ったときより、いくらか顔色がよくなっている。
 日の昇りきらないうちは、夏でも心地のよい、涼しげな風が吹いていた。頬を撫で、髪をなびかせる。

「────今回はたくさん世話になったね。これほど早く、この服にまた袖を通せるとは思わなかった」

「いいえ、わたしは何も……」

「そんなことないよ、わたしや春蘭はきみのお陰で難を逃れたんだ。ろくな礼もできないうちに、今度はきみが追い出されるのを見送ることになってしまって……申し訳ない」

 心苦しそうに眉を下げる元明に、朔弦は叔父に対してと同様に強気なひとことを返そうとした。
 少なくとも、決して元明のせいではない。
 しかし、その前に彼が口を開く。

「朔弦殿にとっては新たな戦いかな?」

 にこにこと穏健(おんけん)な微笑みをたたえているものの、隙のなさが窺える。
 間違いなく一国を支える宰相の、そして名門家を守る当主の顔つきであった。
 威光(いこう)を伴った態度と言葉には、自然と首を縦に振ってしまう。

「……そうですね。ご安心ください、今後はわたしではなく陛下がお嬢さまを守ってくださることでしょう」

「はは、朔弦殿のお墨つきなら心配いらないね。尽くしてもらってばかりですまなかった。身体に気をつけて」

「────……恐れながら」

 改まってそう切り出すと、元明は優しい顔のまま首を傾げる。

「わたしもひとつ、お力添えいただきたいことがございます」

 図々しい頼みであると自覚しながら、それでも彼に会いにきた理由の半分はそれであったために譲れなかった。

「何かな?」

「……わたしがいない間、どうか叔父上をお願いします」

 具体的に何を、と問われると朔弦自身にも分からない。
 そのような曖昧な心持ちは嫌いだが、どうしようもなかった。ただ、案じられるのである。

 悠景を信用していないわけではないが、彼はとにかく危なっかしい。
 “酒は控える”と約束してくれたものの、酒気(しゅき)がなくとも感情的になりやすい人物なのだ。
 今朝の態度も酒のせいであればよいが、半分は本気であったと思っている。
 何ごとかが起きたとき、あのような、後先を考えない軽率な行動に出られては困る。
 そばにいないのでは、自分も手助けできない。
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