桜花彩麗伝

「やだ、お父さま泣いてるの?」

 慌てたような声を受け、元明は咄嗟に目頭を拭った。
 いつも通りの笑顔をたたえようとしたが、ぎこちなく歪んで視界が霞んだ。

「はは……おかしいな」

 取り繕うことさえうまくいかない。
 初めて父の涙を目にした春蘭はしばらく惑ったように動けなかったが、ややあってその手を取った。
 あたたかい右手を包み込む。

「……小さい頃、こんなふうによく手を繋いでくれたでしょ」

 子を失い、妻を失い、ひとりで娘を育て支えていかなければならなくなった頃。
 彼女までもをあっけなく失うわけにはいかず、この手で守るのに必死であった。
 身に余るほどの愛情をどう与えるべきが親なのか、不器用な元明には分からなかったが、春蘭が寂しい思いをしないよう、ことさら大切にしてきたつもりである。

 惜しみない慈愛を受け、春蘭はこれほどまっすぐに育った。
 母や兄の死を冷静に受け止められるほど、その根底を揺るがすこともないほど、強く、それでいて優しく。

「本当に大丈夫よ。立場上、そう頻繁には会えなくなるかもしれないけど、心配しないで。うまくやるから」

 朗々(ろうろう)と宣言してみせる。
 煌凌や朔弦の期待を裏切りたくもなければ、父や“王”の役に立ちたいという思いもあった。

 この先、どのような事態が待ち受けているのかは分からない。
 過酷な(いばら)の道が続いているのかもしれない。
 それでも、“できることがある”ということが何たる幸福か、瑛花宮で痛いほど知った。
 だからこそ、いかなる状況も諦めたくない。

 できることを全力でする。
 ただ、己の役割を(まっと)うするのみである。

「……そうか」

 ややあって、元明の顔に温和な笑みが戻った。

「だけどね、春蘭。忘れないで欲しい。辛くなったら逃げ出していいんだよ。きみの幸せが一番なんだから」

 春蘭は胸の内がじんわりとほどけるようにあたたかくなったのを感じた。
 安堵からか、自然と表情が綻ぶ。

「……ありがとう、お父さま」



     ◇



 居所(きょしょ)へ戻ると、禁苑(きんえん)に人の姿があった。
 紫苑と櫂秦のほかにさらにふたりいて、懸命に何かを訴えかけているが、紫苑は困ったような素振りを見せていた。

「あ、お嬢さ……じゃなくて、婕妤さま!」

 何ごとだろうと訝しむ春蘭に気がついたそのうちのひとりが、ぱっと顔を上げ、大きく手を振る。

「……旺靖?」

「はい! 元気だったすか?」

 久々に顔を合わせた彼は変わらず、眩しいほどの笑顔をたたえている。
 そんな旺靖とともにいたのは、いまにも泣き出しそうな表情をしている莞永であった。
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