桜花彩麗伝



 ふたりを前庭(ぜんてい)に残したまま、朔弦は屋舎(おくしゃ)の戸をそっと開けた。
 この中からも人の気配がしているのである。
 まさか密偵がここまで入り込んでいるとでも言うのだろうか。いくら紅蓮教でも度を超えている。

「…………」

 油断なく(つか)に手をかけながら、粛然(しゅくぜん)とした廊下を慎重に歩んでいく。
 ────かた、と不意に音がした。
 意識していなければ聞き逃してしまいそうなほど些細な物音であったが、確かに耳が拾った。
 警戒を強めつつ、音の出どころへと進む。

 取っ手を掴み、一気に扉を開いた。
 相手に隙を与えないためにも、流れるような動きで素早く剣を抜く。

 誰かいる。
 そう認識したと同時に、刃をその男の首にあてがった。

「うわ……!?」

 心底驚いた()は、数瞬ののちに自身の置かれた状況を悟ったようだ。
 ひやりと冷たい感触の正体に気がつき、おののいたように硬直した。

「な、なな何ですか? 僕を殺すんですか? あ、あなたたちの言いつけは守ってるじゃないですか!」

 おののき喚くように彼が言う。それを聞いた朔弦は訝しげに目を細めた。
 どうやら、紅蓮教の一味ではないらしい。
 それだけは分かった。それだけで十分であった。

「……蕭榮瑶、か?」

「え……」

 思っていたのとは異なる反応が返ってきて、榮瑶は困惑した。
 突きつけられた剣が遠ざかっていく。
 (さや)におさめた朔弦は、ぐるりと部屋を見回した。
 書棚や卓子(たくし)、椅子などの調度品がひと通り揃っている。ここは書斎のようだ。

 その後、再び榮瑶へと視線を戻す。

「前州牧のおまえがここで何をしている」

 榮瑶は眉を寄せる。彼はいったい……?
 そう考え、はたとひらめいた。

「もしかして、新しい州牧の方ですか!?」

「……ああ、謝朔弦だ」

 やはりそうだ。榮瑶はつい顔を綻ばせながら、立ち上がって朔弦に寄った。
 遠慮なく、その手を取って握る。

「謝州牧ですね。あ、僕のことはご存知みたいでしたけど、蕭榮瑶といいます」

 にこにこしながら、握手している手をぶんぶんと振る。
 朔弦は心底迷惑そうな表情をしたが、榮瑶には見えていないようであった。

「それで、えっと……僕がここにいるのは、そう言いつけられてるからなんです」

「言いつけ? 誰にだ?」

 手を引っ込めながら尋ねる。一転して、榮瑶は険しい顔つきになった。

「紅蓮教なんですが、監視されてるお陰でここから一歩も出られなくて────。あれ? そういえばどうやって入ってきたんです? あちこちにいかつい見張り役がいませんでした?」

 なるほど、と朔弦は合点がいった。
 前庭や牆壁(しょうへき)の周りに潜んでいたのは確かに紅蓮教徒であったわけだが、彼らはもともと榮瑶の監視役だったようだ。
 そこへ朔弦たちが現れ、ひとまず隠れたといった具合だろうか。

 前州牧である榮瑶はなぜか、公邸に軟禁されている────。
 彼を閉じ込めているのは、紅蓮教のみの仕業ではないであろう。
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