桜花彩麗伝

「何があったんだ。百馨湯の配給はどうなった」

 その言葉に榮瑶は息をのむ。なぜ、それを知っているのだろう。

「それは……」

 言ってもよいのだろうか。下手なことを口にすると、あの夜に出会った百馨湯の持ち主たちを裏切ることになりやしないであろうか。
 胸の内を一抹(いちまつ)の不安が掠めた。
 水の中に落ちた墨のように、滲んで尾を引く。

「心配はいらない。わたしは“彼ら”を知っている」

 心を見透かしたように朔弦が言うと、榮瑶は弾かれたように顔を上げる。
 嘘をついているとは思えない。彼から敵意や悪意などは感じられなかった。
 そう判断し、意を決して口を開く。

「実は……失敗しちゃいました」

「失敗?」

「はい。密かに配って回ってたんですが、あるときばれてしまって。……白尚書に」

 “白”という姓に、宮殿を発つ前に交わした会話を思い出した。
 戸部尚書である文禪の顔がよぎる。
 いまは分からないが、やはり柊州にいたようだ。容燕の差し金であろうか。

「百馨湯はぜんぶ取り上げられて、僕は公邸に閉じ込められました。常に紅蓮教徒が見張ってて身動きが取れません。彼らは“外に出ないこと”と“誰とも会わないこと”を言い渡して、余計なことはしないって約束で命だけは助けてくれました……」

「そんなものは口実に過ぎない。恩に感じるな」

「え?」

「おまえの命を繋いだのは蕭姓だ。本意であろうとなかろうとな」

 榮瑶は思わず唇を噛んだ。
 蕭一族であるゆえに、紅蓮教には最初から自分を殺すつもりなどないのに、そんな約束を取りつけてきたわけである。

 朔弦はそんな彼を眺めつつ、思案する。
 薬材の配給は半ばで中止せざるを得なくなったものの、榮瑶による配給のお陰で疫病(えきびょう)の感染速度が落ち、何とか柊州内で食い止められているのが現状のようだ。
 しかし、それも時間の問題であろう。

「……それで、取り上げられたと言っていたが、百馨湯は処分されたのか?」

「わ、分かりません。すみません」

 かれこれひと月以上はこの状態であるため、外部のことを知る(すべ)がない。
 いまの柊州がどうなっているのかすら、その場にいながら把握できていないのだ。

「そうか」

 短く答えた朔弦は悠然と踵を返し、書斎の扉を開ける。

「おまえの軟禁を解いてやる。以前と変わったことがないか、その目で確かめてこい」
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