桜花彩麗伝

 引き止めるも追いかけるもままならず、残された春蘭は困惑したままぽつんと佇んだ。
 突然、どうしたのだろう。
 櫂秦の消えた方向を見つめていると、ガシャン! と唐突に何かが割れるような音が耳をついた。

 驚いて弾かれたようにそちらを向けば、地に瓦が落ちている。
 その屋敷の牆壁(しょうへき)を見上げると、そこにはひとりの男がいた。

 男、という(いか)つい呼び方をするにはふさわしくない、清然(せいぜん)たる美男子であった。
 鈴蘭や白百合の似合いそうな、(きよ)らで色白な青年だ。

「姫さま……?」

 彼もまた驚いたような表情で春蘭を眺め、小さくそう呟く。
 姫? と首を傾げると、はっと我に返ったように牆壁(しょうへき)にかけていた足を下ろす。
 どうやらこれを乗り越えようとして、誤って瓦を落としてしまったようだ。

「あ、失礼しました。以前読んだ物語に出てきた人物で……。あなたが、あまりにその想像通りだったので」

 どうやら“姫さま”は架空の人物のようである。
 もっとも、この国に王女という存在はいない。鳳家の姫という意味合いでは間違いではないのだが。

 彼の浮かべたどこか照れくさそうな笑みは柔らかく、物腰も丁寧なものであった。
 優しげな雰囲気をまとっているが、線の細さは感じられない。
 そのたたずまいは貴族の公子(こうし)らしく気品にあふれており、控えめながら堂々たる存在感を発揮していた。

「驚かせてしまってすみません」

「……いえ、平気です」

 それは瓦の話なのであろう。春蘭は微笑みながら首を左右に振る。

「怪我はありませんでしたか」

 春蘭の腕に、伸びてきた彼の手が牆壁(しょうへき)を越えて触れた。
 遠慮がちな指先に戸惑って見上げれば、色素の薄い双眸(そうぼう)に捉えられる。

「……よかった。幻じゃなかった」

 ふっと和らいだ目元は優しさをまとっていたが、行動の端々におっとりと天然な要素が見え隠れしていた。

「あ、の」

「あ、すみません。誰かと会うのは久しぶりで……。こうして、あなたと話せたことが嬉しくて」

 ぱっと慌てたように手を離した彼は、眉を下げつつ悲しげに笑った。
 紫苑がこの場にいれば(いきどお)って振り払ったかもしれないと思う反面、さすがの彼でさえ躊躇うのではないかと思えるほど儚げである。

 春蘭が何ごとかを答えようと口を開いた瞬間、屋敷の方から訝しむような声が飛んできた。

「誰かいるのか」
< 400 / 435 >

この作品をシェア

pagetop