桜花彩麗伝
引き止めるも追いかけるもままならず、残された春蘭は困惑したままぽつんと佇んだ。
突然、どうしたのだろう。
櫂秦の消えた方向を見つめていると、ガシャン! と唐突に何かが割れるような音が耳をついた。
驚いて弾かれたようにそちらを向けば、地に瓦が落ちている。
その屋敷の牆壁を見上げると、そこにはひとりの男がいた。
男、という厳つい呼び方をするにはふさわしくない、清然たる美男子であった。
鈴蘭や白百合の似合いそうな、清らで色白な青年だ。
「姫さま……?」
彼もまた驚いたような表情で春蘭を眺め、小さくそう呟く。
姫? と首を傾げると、はっと我に返ったように牆壁にかけていた足を下ろす。
どうやらこれを乗り越えようとして、誤って瓦を落としてしまったようだ。
「あ、失礼しました。以前読んだ物語に出てきた人物で……。あなたが、あまりにその想像通りだったので」
どうやら“姫さま”は架空の人物のようである。
もっとも、この国に王女という存在はいない。鳳家の姫という意味合いでは間違いではないのだが。
彼の浮かべたどこか照れくさそうな笑みは柔らかく、物腰も丁寧なものであった。
優しげな雰囲気をまとっているが、線の細さは感じられない。
そのたたずまいは貴族の公子らしく気品にあふれており、控えめながら堂々たる存在感を発揮していた。
「驚かせてしまってすみません」
「……いえ、平気です」
それは瓦の話なのであろう。春蘭は微笑みながら首を左右に振る。
「怪我はありませんでしたか」
春蘭の腕に、伸びてきた彼の手が牆壁を越えて触れた。
遠慮がちな指先に戸惑って見上げれば、色素の薄い双眸に捉えられる。
「……よかった。幻じゃなかった」
ふっと和らいだ目元は優しさをまとっていたが、行動の端々におっとりと天然な要素が見え隠れしていた。
「あ、の」
「あ、すみません。誰かと会うのは久しぶりで……。こうして、あなたと話せたことが嬉しくて」
ぱっと慌てたように手を離した彼は、眉を下げつつ悲しげに笑った。
紫苑がこの場にいれば憤って振り払ったかもしれないと思う反面、さすがの彼でさえ躊躇うのではないかと思えるほど儚げである。
春蘭が何ごとかを答えようと口を開いた瞬間、屋敷の方から訝しむような声が飛んできた。
「誰かいるのか」