桜花彩麗伝
はっとして、思わず彼の顔を見やると目が合った。
その綺麗な顔にも戸惑ったような、あるいは恐れたような色が浮かび、表情が強張る。
「……いいえ、父上」
彼は端然と答えながら牆壁から離れ、母屋の方へと向かっていく。
春蘭はその場に縫いつけられ、つい彼の背を見つめてから、身を隠すようにその場に屈んだ。
「失せものを探していただけです」
一瞬たりとも迷うことなく、彼はそう言った。春蘭のことを口にする素振りは微塵もない。
「……そうか。話し声が聞こえたような気がしたが」
「き、気のせいですよ。それより何かありましたか?」
嘘そのものは得意ではないのか、狼狽えながら話題を逸らした。
父親はどこか釈然としない様子だが、それ以上追及することなく、促されるままに本題へ入る。
「ああ、どうやら王宮でひと悶着ありそうだ。鳳家の娘が正式に婕妤に任命されたことで、侍中はたいそう機嫌が悪くて……」
「そうなのですか」
「近々、帆珠殿が後宮に召し上げられるだろう。鳳家との確執はますます激化するな」
「…………」
「おまえも白家の跡取りとしてしかと励むように。わたしの顔に泥を塗るようなことがあれば許さぬ。わたしや蕭家の役に立てぬようなら、存在価値もないのだから────」
────牆壁の裏から立ち上がり、春蘭が密かに去ったところを見届けた橙華は、再び白家別邸の敷居を跨いでいた。
ここで宮殿へ帰されては、春蘭の動向を窺えない。“監視”という文禪に下された命を果たせない。
そう考え、紫苑を振り切ってその目を逃れたのであった。
白家次期当主、嫡男である若君が文禪とのやり取りを終えて再び庭院へ出てくる。
彼がいつも踏み台にしている庭石へ上がり、牆壁の向こう側に視線を巡らせるが、既に春蘭の姿はなくなっていた。
そのことに肩を落とす彼が部屋へ引き揚げたのを確かめると、橙華はこそこそと母屋の方へ駆け寄る。
「文禪さま……」
庭院に面した書斎で書物を捲っていた彼に声がかかった。
文禪は手を止めることも顔を上げることもせず、淡々と「何だ」と聞き返す。
「まだいたのか」
「は、はい。あの……先ほど鳳婕妤さまがお屋敷のすぐそばまでいらしてました。ほんのわずかですが、若さまとお話しになって……」