桜花彩麗伝

 厳格かつ苛烈(かれつ)な父親のもと、過酷な境遇に晒されてきたのだろう。あのわずかな時間でもそれが垣間見えた。

 直感的にひらめく。
 瓦が落ちてきたのは、一時でもそんな現実から逃れるべく、牆壁(しょうへき)を乗り越えようとしていたからではないだろうか。
 もしかすると彼は、密かに何度もそうして屋敷を抜け出しているのかもしれない。

 彼を文禪や蕭派とひとくくりにしてよいのだろうか。
 あのたった短い間のみ接したに過ぎないが、どことなく毛色が異なるような気がする。

「……じゃあ、さっそくお願いしようかしら」

 ややあって春蘭が芙蓉に言う。真っ先に反応を示したのは紫苑であった。

「どこへ行かれるおつもりですか? 宮外は危険ですから、不用意に出歩かない方が……」

「そうね、分かってる。でも、聞いて欲しいことがあるの」

 かくして以前、宮殿を抜け出した折、櫂秦とはぐれてからの出来事を伝える。
 白家別邸を見つけたことやその若君(わかぎみ)と知り合ったこと、当主であり戸部尚書の文禪は現在、柊州の本邸ではなく都にいること────。

「その公子(こうし)さま……彼からなら、何か聞けるかもしれない。何かって百馨湯のことだけど」

 白家が有しているのは堅いとしても、彼が関与しているのかどうかは分からない。
 百馨湯の在り処どころかその存在さえあずかり知らない可能性はある。

「知っていたとして素直に口を開くでしょうか。それは家や父親を裏切りかねない行為なのでは?」

 紫苑の指摘はもっともだ。
 彼がいかな冷遇を受けていようと、白家の人間としての矜恃(きょうじ)や父親への情は持ち合わせているはずである。

「だけど、話してみる価値はあると思うの。榮瑶がどのくらい頑張ってくれたか分からないけど、百馨湯を手に入れて疫病(えきびょう)の患者に届けたい。紅蓮教を牽制(けんせい)する一手にもなるでしょ」

「確かに。市場に出回れば高騰(こうとう)も落ち着くでしょうし、金儲けという連中の思惑も潰せますね」

「あの……」

 不意に消え入りそうな声で橙華が口を開いた。
 当の本人が一番戸惑っているような、あるいは躊躇しているような気配がある。

「どうかした?」

「若さまは嬉しかったと思います……。婕妤さまという話し相手が現れたことが」

「……どういうことだ?」

 春蘭と顔を見合わせた紫苑が尋ねると、橙華は視線を落とした。

「白家当主の文禪さまは……兼ねてより若さまに過度な期待を寄せているのです。自分の子でさえ、白家が栄耀栄華(えいようえいが)を極めるための道具としか思ってません」

 その言葉に思い返した。文禪は確かに、彼に残酷なことを言っていた。

『おまえも白家の跡取りとしてしかと励むように。わたしの顔に泥を塗るようなことがあれば許さぬ。わたしや蕭家の役に立てぬようなら、存在価値もないのだから────』
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