桜花彩麗伝
紫苑に問われた櫂秦は一度、口を噤んだ。
返答を迷っているというより、言葉を探しているようであった。
「俺は楚姓を捨てる。最初に名乗った通り、魯櫂秦としておまえらのそばにいるよ」
やがてはっきりと告げられ、ふと鳳邸で交わした会話が蘇ってくる。
『仲間?』
『ああ、今回のこと……いや、これからもかな。おまえのやりたいことが叶うように、俺は全力で手を貸す』
彼の鮮やかな言葉は花火のように胸を打ったが、その場限りで散ったりはしなかった。
『今度は俺が助けるから』
それを裏づけるだけの確固たる意思が窺える。
疑ったことなど無論なかったが、楚家や商団に再興の目処が立っても一貫していることから、春蘭の存在を利用したわけではなかったようだ。
紫苑はあの日と同じく、眩いような気持ちになった。
「ありがと、櫂秦。あなたがいてくれると心強いわ」
「……わたしは何かとひやひやさせられるので疲れますが」
ふたりの言葉に櫂秦は笑った。心置きなく笑うことができたのは、何だか久しぶりな気がした。
望むと望まざるとに関わらない生まれのせいで、幼少の頃から手に負えないほどの重圧に晒されてきた。
兄とは隔絶され、姉とともに楚家の習わしの犠牲となってきたが、それを大人しく受容できるほど従順な性分を持ち合わせてはいなかった。
本家の望む当主像とかけ離れていったのは、反発ばかりするようになったのは、櫂秦の防衛本能だったのかもしれない。
流浪の身となっていたのは何も、兄の捜索だけが理由ではなかったのだ。
櫂秦の“放浪癖”は、そんな窮屈な現実からの逃避であり、保守的な本家への幼稚な当てつけという側面もあった。それでも、もはやそんな必要はなくなった。
重要なのは血筋ではなく“器”であると、証明してみせる。
「色々面倒かけたな。これからもよろしく頼む!」
屈託なく破顔する櫂秦に、春蘭も応じるように笑み返す。
本当の意味でようやく見つけた居場所がここであるということは、春蘭にとっても純粋に嬉しかった。
と、はたと思い出したように彼が「あ」と声を上げる。
「そういや、朔弦たちが王宮へ帰ってきたみてぇだぞ。榮瑶の奴も一緒に王サマとエッケンしてるって。なあ、話聞きに行かねぇか?」
「待ってたらここへ寄ってくれると思うけど……せっかくだから迎えにいく?」
「まあまあ、おまえはここで待ってろよ。俺と紫苑で行ってくるからさ」
そう言って顧みたが、彼はどこか心ここに在らずといった具合に何やら放心していた。
櫂秦に「紫苑?」と改めて呼びかけられ、はたと我に返る。
「あ、ああ……。そうだな」
気にかかることがあるようだが、それを口にする気配はなかった。
完璧な微笑をたたえ、春蘭に一礼すると廊下を歩いていく。
訝しむように顔を見合わせつつ、櫂秦もまた桜花殿をあとにした。