桜花彩麗伝



 ふたりが出ていくところを横目に花茶を運んできた芙蓉は、待望していたかのように瞳を煌めかせた。
 この隙を見計らい、茶を配しながら「あの」と切り出す。

「お出かけのご予定はありませんか? わたし、また代わりを務めますよ!」

 近頃はやけにそう申し出てくれる。少し困惑の念を覚えつつ、春蘭は苦笑をたたえた。

「それはありがたいんだけど……とりあえずは大丈夫かしら。朔弦さまたちを待たないといけないし」

「些細なご用事でも思い当たりませんか? 主上と謁見(えっけん)なさってるなら、きっとまだまだ時間がかかりますよ」

 妙なことに食い下がられてしまった。引く気配がないが、確かに一理あるかもしれない。

 宮外と言うと、春蘭の頭にはまたしても彼のことが浮かんできた。
 真摯(しんし)にも誠実に協力を申し出てくれた淵秀のことを、くだんの一件が解決したからと言って一報(いっぽう)も入れずに放置するのは気が引けてならない。
 父親の反感や怒りを買うことも(いと)わず、危険を顧みることなくこちらと気脈(きみゃく)を通じてくれた彼には、直接会って礼を告げなければ気が済まないというのが本音であった。
 この機を逃せば、恐らくはしばらく会えなくなるだろう。

「……じゃあ、またちょっとだけお願いしていい?」

「はい! お気をつけて行ってらっしゃいませ」



 橙華を供に桜花殿を出た春蘭を見送ると、着飾った芙蓉は堂々と長椅子に腰かけた。
 先ほど自ら運んできた、手つかずの花茶に口をつける。

「……冷めてる。ねぇ、ちょっと淹れ直してくれない?」

 その横柄(おうへい)なもの言いと驕傲(きょうごう)な態度を受け、控えていた女官や内官たちの顔に戸惑いの色が浮かんだ。
 それぞれ顔を見合わせ、おずおずと口を開く。

「あの……しかし、我々がお仕えしているのは────」

「なに? いまはわたしが“婕妤”でしょ。言うことが聞けないなら、あなたたちが反抗的だってお嬢さまに告げ口するわよ」

 それを受け、怯んだように口を噤んだ内官は、傍らに立っていた女官に目配せをした。
 不満気に眉を寄せながらも、彼女が盆を手に下がっていったとき、ふと表の方が騒がしくなる。

「お、お待ちください……っ」

「黙らぬか。妾を誰と心得る!」

 慌てる女官たちの制止を振り切り、憤然(ふんぜん)たる足音が廊下を突き進んで近づいてくる。
 バン! と間を置かずして勢いよく、両開きの扉が開け放たれた。

「正式に後宮の一員となったのに、挨拶にも参らぬとは────」

 その声は自ずと途切れ、火のついた導火線のようであった憤りが勢いを失う。
 硬直した芙蓉の手から、華やかな刺繍の施された団扇(うちわ)が滑り落ちていく。

 現れたのは鮮美(せんび)な装いの太后であった。
 引かれた濃い紅がいっそう表情を際立たせ、その顔に怒りと驚きを滲ませているのが見て取れる。
 怪訝さを(てい)する数拍分の沈黙。その髪や耳に揺れる大ぶりの飾りが蝋燭(ろうそく)の光を弾いた。
 やがて、すぅ、とその目が細められる。

「そなたは……誰だ」
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