桜花彩麗伝
◇
「おやめに! 離してください……!」
泰明殿を目指す道中、紫苑と櫂秦は何やら騒ぎを聞きつけた。
数人の女官たちが連なっている中、悲鳴にも似た悲痛な声が響いてくる。
「何だ何だ?」
不思議そうに眺め、渦中の人物を目の当たりにした櫂秦はぎょっとした。
紫苑もさすがに驚き、瞠目して足を止める。
「芙蓉……?」
捕縛された上で女官たちに腕を引かれているのは、春蘭とともに桜花殿にいるはずの芙蓉であった。
女官の衣装ではなく、煌びやかな妃然とした装いをしているところを見ると、またしても春蘭と成り代わっていたのかもしれない。
「おい、まさかあいつこの隙に抜け出したんじゃねぇだろうな」
「何にせよ、まずいことになった。芙蓉が連行されているということは、最悪は太后さまにでもバレたんじゃないか」
可能性を口にしながら青ざめた紫苑の様子を受け、櫂秦も事の重大さを理解した。
いまこの場で芙蓉を助け出す手段はないが、連行された先に待ち受けているのはせいぜい尋問といったところであろう。
問題は所在の知れない春蘭の方だ。
成り代わりが露呈してしまった上で宮外へ出ようものなら、ただでは済まない。その身も地位も危機に晒されていた。
「おまえは東門の方へ行け。俺は反対側捜す。春蘭を見つけたら急いで桜花殿に連れ戻すぞ」
────かくして西門側へと駆け抜けた櫂秦は、手前でその姿を見つけた。
橙華とともに門を潜ろうとしていたところを、あと一歩といった具合で幸いにも間に合ったようだ。
「おい、春蘭!」
「……え、櫂秦?」
なぜ、という即座に浮かんだ疑問を口にする間もなかった。
焦燥の滲む険しい表情をたたえる彼に、すぐさま手首を掴まれる。
「急いで戻れ。芙蓉が連れてかれた」
◇
一方、紫苑は泰明殿を通り過ぎ、脇目も振らず東門側へと駆けていく。
先ほどの推測が的を射ていた場合、身から出た錆と言わざるを得ないかもしれないが、それを叱責するのはあと回しだ。
いまはとにかく一刻を争う上、身を切るような憂いに飲み込まれていた。
そんな彼の姿を、殿をあとにした榮瑶が認めた。
再び柊州へ発つ前に、記念がてら宮殿見物をしていたところ、こんなところで彼に会えるとは思わなかった。
「あの!」
咄嗟に声をかけると、果たして紫苑は足を止める。
余裕を失った不安気な表情のまま榮瑶を顧みた。
「あなたは……」
「はい、あのときはお世話になりました。お陰で────」
「すみませんが、お話はまた後ほど伺います。いまはそれどころじゃ……」
実際の柊州での一部始終を榮瑶自身の口から聞きたいという思いはあったが、そうしている暇はなかった。暢気に油を売っている間にも春蘭が窮地に立たされかねない。
焦りを隠せないまま、不躾を承知で早々に切り上げようと再び足を踏み出す。
そのとき、榮瑶が再び口を開いた。
「────“碧兄上”」
ぴた、と彼が立ち止まる。
言葉を失い、微動だにしないのは、榮瑶の口にしたその名に明らかに動揺している証拠であった。
「やっぱり……碧兄上、なんですよね」
その双眸が彷徨うように揺れる。
長い長い、沈黙が落ちた。まるでふたりの時だけが止まってしまったかのような。
やがてそよいだ緩やかな風が、頬にかかっていた髪を攫っていく。
ゆっくりと、紫苑は顔を上げた。
「おやめに! 離してください……!」
泰明殿を目指す道中、紫苑と櫂秦は何やら騒ぎを聞きつけた。
数人の女官たちが連なっている中、悲鳴にも似た悲痛な声が響いてくる。
「何だ何だ?」
不思議そうに眺め、渦中の人物を目の当たりにした櫂秦はぎょっとした。
紫苑もさすがに驚き、瞠目して足を止める。
「芙蓉……?」
捕縛された上で女官たちに腕を引かれているのは、春蘭とともに桜花殿にいるはずの芙蓉であった。
女官の衣装ではなく、煌びやかな妃然とした装いをしているところを見ると、またしても春蘭と成り代わっていたのかもしれない。
「おい、まさかあいつこの隙に抜け出したんじゃねぇだろうな」
「何にせよ、まずいことになった。芙蓉が連行されているということは、最悪は太后さまにでもバレたんじゃないか」
可能性を口にしながら青ざめた紫苑の様子を受け、櫂秦も事の重大さを理解した。
いまこの場で芙蓉を助け出す手段はないが、連行された先に待ち受けているのはせいぜい尋問といったところであろう。
問題は所在の知れない春蘭の方だ。
成り代わりが露呈してしまった上で宮外へ出ようものなら、ただでは済まない。その身も地位も危機に晒されていた。
「おまえは東門の方へ行け。俺は反対側捜す。春蘭を見つけたら急いで桜花殿に連れ戻すぞ」
────かくして西門側へと駆け抜けた櫂秦は、手前でその姿を見つけた。
橙華とともに門を潜ろうとしていたところを、あと一歩といった具合で幸いにも間に合ったようだ。
「おい、春蘭!」
「……え、櫂秦?」
なぜ、という即座に浮かんだ疑問を口にする間もなかった。
焦燥の滲む険しい表情をたたえる彼に、すぐさま手首を掴まれる。
「急いで戻れ。芙蓉が連れてかれた」
◇
一方、紫苑は泰明殿を通り過ぎ、脇目も振らず東門側へと駆けていく。
先ほどの推測が的を射ていた場合、身から出た錆と言わざるを得ないかもしれないが、それを叱責するのはあと回しだ。
いまはとにかく一刻を争う上、身を切るような憂いに飲み込まれていた。
そんな彼の姿を、殿をあとにした榮瑶が認めた。
再び柊州へ発つ前に、記念がてら宮殿見物をしていたところ、こんなところで彼に会えるとは思わなかった。
「あの!」
咄嗟に声をかけると、果たして紫苑は足を止める。
余裕を失った不安気な表情のまま榮瑶を顧みた。
「あなたは……」
「はい、あのときはお世話になりました。お陰で────」
「すみませんが、お話はまた後ほど伺います。いまはそれどころじゃ……」
実際の柊州での一部始終を榮瑶自身の口から聞きたいという思いはあったが、そうしている暇はなかった。暢気に油を売っている間にも春蘭が窮地に立たされかねない。
焦りを隠せないまま、不躾を承知で早々に切り上げようと再び足を踏み出す。
そのとき、榮瑶が再び口を開いた。
「────“碧兄上”」
ぴた、と彼が立ち止まる。
言葉を失い、微動だにしないのは、榮瑶の口にしたその名に明らかに動揺している証拠であった。
「やっぱり……碧兄上、なんですよね」
その双眸が彷徨うように揺れる。
長い長い、沈黙が落ちた。まるでふたりの時だけが止まってしまったかのような。
やがてそよいだ緩やかな風が、頬にかかっていた髪を攫っていく。
ゆっくりと、紫苑は顔を上げた。