桜花彩麗伝

 その瞳が揺らぎ、やがて困ったように視線を落とした。
 普段は、(いな)()()()は気弱で臆病だった榮瑶が、かくも堂々と引く気配がないのは、既に予感ではなく確信を持っているせいであろう。
 目の前にいる人物こそが、消えた蕭家の嫡男(ちゃくなん)、いなくなった兄である碧依にちがいない、と。

「碧兄上────」

「その名は捨てた。……二度と、わたしをそう呼ぶな」

 突き放すような言葉とは裏腹に、声色に冷淡さはなかった。
 窺えるのは戸惑いと、決意と、ささやかな後悔。
 一拍のちに上げた顔には、そのすべてを覆うほど端正(たんせい)な微笑がたたえられていた。

「わたしの名は紫苑です。もう、あなたの求める“碧兄上”はこの世にいません」

 今度は榮瑶の双眸(そうぼう)が揺れ、つい唇の隙間から「兄上……」とこぼれ落ちた。慌ててかぶりを振る。

 もう、いない。
 意地悪なもうひとりの兄と妹にどんな目に遭わされようと────真っ暗な(くら)の中に閉じ込められようと、肥溜(こえだ)めに突き落とされようと、いつだって真っ先に見つけて、助けてくれた大好きな優しい兄は、もう。

 とうの昔に家を捨て、名を捨て、確約された将来を手放した。
 それには人生までもを捨てる相当な覚悟を要したはずである。

 あの頃の榮瑶はあまりに幼く、兄が突然いなくなってしまったことを悲しみ、嘆き、いっそ恨めしくさえ思ったこともある。
 自分が不甲斐ないから、愛想を尽かして出ていってしまったのかとも思った。
 だから、たくさん勉強をした。兄妹たちの嫌がらせや厳格な父の嫌味をものともしないような“成功”と強い心を得ることができたら、兄が帰ってきてくれるのではないかと期待した。
 ずっと、待っていた。

 年月を重ね、蕭家の本質が理解できるようになると、決してそうではなかったと、兄がすべてを捨てるに至った本当の理由に想像が及ぶようになった。
 恐らくはあの頃の兄と同じような気持ちを抱えながらも、榮瑶が一門に留まり続けたのは、半分は諦めであり、半分はやはり兄のためである。

 帰ってきてはくれなくてもいいから、また、見つけて欲しかった。気づいて欲しかった。
 もう、あの頃、泣いてばかりいた情けない弟ではないのだと。強くなったのだと。
 会うことは叶わずとも、兄にこの名が届くような、清廉(せいれん)で神妙な能吏(のうり)を目指した。

「ですが、これだけは言えます。あなたは……本当に立派になった」

 榮瑶は息をのんだ。吸い込んだ息が喉元で詰まり、目の前が揺らぐ。
 “兄上”と呼んで駆け寄りたいのを必死でこらえた。理性がどうにか感情を制する。

 ────生きていてくれた。それだけでもう、十分だ。
 新たに切り(ひら)かれた彼の運命を、いまさら邪魔立てなどしたくなかった。
 惨憺(さんたん)たる遠い過去に引きずり戻すような、残酷な真似などできない。
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