桜花彩麗伝

 紫苑の心臓が重たげな音を立て、沈み込んだ。
 そんなことは、決してない。誰より信じているのはほかならぬ春蘭────であるはずなのに、なぜか言葉を失っただけでなく愕然(がくぜん)としてしまう。
 朔弦の言葉を認めたわけではなかったが、真っ当な反論をひとことも返すことができなかった。

 (つまず)かないよう、転ばないよう、石をどけて歩きやすい道を敷いてやることが、本当に春蘭のためになっているのか。
 不意に核心を突かれた気がして、紫苑は何も言えなくなってしまった。



     ◇



 どうにか煌凌のことは()き伏せたが、結果的になす(すべ)なく時間ばかりが過ぎていった。

 日暮れ頃、黙って春蘭を見守っていた櫂秦に朔弦と紫苑も加わり、回廊(かいろう)からその姿を眺めた。
 いつの間にか降り出した雨が地を叩き、容赦なく春蘭に襲いかかる。
 見張りと好奇(こうき)の念から立ち並んでいた女官たちは退散し、太后や帆珠も数刻前のうちに場をあとにしていた。

「お嬢さま……」

 ただひとり残された春蘭の顎先や髪から雫が垂れ、水を吸った(ころも)は重たくなっていた。
 (おもて)を伏せているお陰で表情は窺えないが、既に相当疲弊(ひへい)しているはずである。

 朔弦は(のき)から空を見上げ、連なる暗い雲と糸のような雨を眺めた。
 春蘭の視線を戻すと、眉根に力を込める。

「……そろそろ限界かもしれないな。顔色が悪い」

「え?」

「桜花殿へ運ぶことになりそうだ。あたたかい茶の支度でもしておいた方がいい」

 不思議そうに聞き返す櫂秦に朔弦が答えたとき、どさりと何かが倒れ込むような音がした。
 はっとして石畳を見やれば、つい先ほどまで(ひざまず)いていたはずの春蘭が横たわっている。

「お嬢さま!」

 いち早く地を蹴った紫苑は抱き起こすと、水気で頬に張りついた髪を流してやる。
 肌も唇も色を失い、春蘭は固く目を閉じている。
 疲弊に加え雨に打たれたことで、体温を奪われた身体が弱りきってしまったのであろう。
 横抱きにして素早く立ち上がると、動揺と焦りを滲ませつつも、今回は冷静に朔弦を窺った。
 彼は神妙な面持ちで小さく頷く。

「運んでやれ。この場はわたしが収めておく」



     ◇



 寝台(しんだい)に横たえられた春蘭は、女官たちの手により乾いた清潔な衣装への着替えを施された。
 その後、訪れた侍医(じい)が脈診をする間、飛んできた煌凌を含め、紫苑らは心配そうな面持ちで寝台を取り囲む。
 芙蓉は冷えた身体をあたためるべく茶の用意をし、橙華は濡れそぼった春蘭の髪を懸命に布で拭っていた。

「して……どうだ? 春蘭の容態は」

「お身体が衰弱しておられますが、あたたかくしてお休みになればすぐによくなるでしょう。心配はご無用です、陛下」
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