桜花彩麗伝
かくして、春蘭は自らの意思で王の居所へと足を運んでいた。
妃という立場を利用することを念頭に置けば、朔弦ほどの策士でなくとも巡らせるべき計略には見当がつく。
取り次ぎへ許可が下り、両開きの扉を潜ると殿内へ足を踏み入れた。
出迎えるように煌凌が歩み寄ってくる。
先んじて入れておいた訪問の連絡を受けてから、ずっとそわそわと待っていたにちがいない。
時折見せる表情のみならず行動まで仔犬じみてきたと、春蘭は思わず笑った。
「落ち着かないみたいね」
「と、当然であろう。そなたがわざわざ訪ねてくるとは、よほどの緊急事態ではないのか? 何があったのだ?」
不安気に眉を下げた彼は、しかし春蘭が笑みを浮かべていたことにいくらか余裕を取り戻したようだ。
目配せで人払いをし、殿内でふたりになる。
「あら、何かなければ夫を訪ねちゃいけない?」
その悪戯っぽい表情に、煌凌はやや面食らった。
かりそめの偽装夫婦であったはずだった。形ばかりしかなかった“夫婦”という認識を、あたたかい感情が満たしていく。
心地よい拍動が、煌凌を正直にさせた。
「いや、嬉しい。余も春蘭に会いたかった。何ごともないのなら何よりだ」
ごく自然に手を握られたかと思うと、いつの間にか背に添えられていた彼のもう一方の手が春蘭を引き寄せた。
改めて見ても、群を抜いて整った綺麗な顔立ちをしている。
周囲がやけに眉目秀麗揃いであることや、生まれた頃から紫苑のような完璧な美丈夫と過ごしてきたことで美形には耐性があるはずだが、それでも見とれかけたほどだ。
ぐっと近くに迫った端正な顔を、しかし咎めるように見上げた。
「……ちょっと。冗談のつもりだったのに」
「煽ったそなたが悪い。余は最初から、何ひとつ冗談で済ます気などなかった」
いっそう手に力が込められ、春蘭は戸惑った。
「こ、煌凌?」
「それとも、そなたまで余に背を向けるか……?」
様子がちがう、という直感はどうやら当たっていたようだ。
儚げに曇った表情からは言いようのない憂いが窺える。
「何かあったの?」
腕の中で尋ねると、間近で彼の瞳が揺れた。我を思い出したように腕をほどき、そっと目を伏せる。
「……何でもない」
────そのとき、春蘭の冊封を未だ認めようとしない上奏が少なくなかったことや、芳雪を王妃に据えるよう求める声が小さくなかったことを、春蘭はあとから知った。
最初に取り沙汰されたのはひと月近くも前なのに、春蘭の耳には一切及んでいなかった。
ひとえに煌凌が守ってくれていたのであろう。