桜花彩麗伝

 そのまますり抜けてしまいそうだった彼の手を、咄嗟に掴んで引き止めた。簡単に離れないよう、しっかりと捕まえておく。

「心配しなくていいわ」

「え……」

「約束したでしょ。わたしはいなくなったりしない。あなたのそばで、あなたの望むものになるって」

 陶器(とうき)のような肌に落ちた、長い睫毛が落とす影の色が淡くなる。
 暫時(ざんじ)、言葉を失っていた煌凌はややあって笑んだ。
 雪を溶かす陽の光のように柔らかい面持ちで、心底安堵したようにその手を握り返す。

「そなたは余の……唯一で、一番だ」

 誰より特別で大切な存在に、いつの間にかなっていた。
 失うことが当たり前だったせいで、そんな存在ができることを何より恐れていたのに。
 どうせ消えてしまうのなら、最初から何もいらないと諦めていたのに。

 そもそも資格がなかった。過去を嘆く資格も、息をする資格も、未来を望む資格も……当然、誰かを想う資格も。
 歪んだ運命はいつか必ず元に戻る。
 また、何もかもを失うときが来る。
 “そのとき”が来て玉座を降りることになり、王でなくなっても、春蘭は変わらず自分を見てくれるであろうか。
 自分にそんな価値があるだろうか。

「……ねぇ、あなたにお願いがあるんだけど」

「何だ? 何でも叶えてやる」

 純粋な眼差しで瞳を煌めかせた煌凌に、どことなく後ろめたいような気になった。
 これはあくまで帆珠を追い落とすための手段であり、自分の立場や彼の存在を利用するためのものでもある。
 ────とはいえ、そこにほんの一滴でも春蘭自身の気持ちがあればどうだろう。
 いまはまだ、名前すら不確かで曖昧な感情でも。

「今日から夜ごと、桜花殿へ来てくれないかしら」



 それから数日が経ち、王は約束通り桜花殿へ足(しげ)く通っていた。
 夜ごとと言わず、日中(ひなか)でも暇さえあれば春蘭に会いにくるようになった。

 鳳姫(ほうき)であることを抜きにしても、もともと春蘭を憎からず思うどころか好いていた様子は確かにあったが、突如として王と妃の役割を果たす気になったきっかけは何だろう。と、紫苑は首を傾げずにはいられなかった。

 (よい)を照らす月が昇り、今日も今日とて煌凌は桜花殿を(おとな)っていた。
 春蘭からの申し出は正直なところ意外で驚いたが、意に反するわけもなくむしろ前向きな姿勢であった。

「来てくれてありがとう、煌凌。さて、それじゃ今日も好きに過ごしてくれていいわよ」

 そう言った春蘭は自らもそうするべく、長椅子に腰を下ろすと刺繍を始めた。
 ────数日間、実に変わらずこの調子であった。

 桜花殿の中でこうしてふたりきりになっても、それぞれが思いのままに過ごすばかりで、適当に時が経てば煌凌も自身の寝殿(しんでん)へと帰る。
 春蘭は妃としての、夫婦(めおと)としての役割に積極的になったわけではなかったのだと分かると、初日の段階で張っていた気がいくらか抜けた。
 安堵したような、残念であるような、複雑な心境に駆られるようになったが。
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