桜花彩麗伝

 少しの間、口を噤んだまま春蘭を見つめていた煌凌は、しっとりとした足取りで長椅子へ歩み寄ると、その隣に腰を下ろした。
 手を止めた春蘭は不思議そうな面持ちで彼を見やる。

「どうしたの」

「……好きに過ごせと言った」

 前を向いたままぽつりと答えた。
 ますます不思議そうな表情で首を傾げた春蘭を一瞥(いちべつ)し、煌凌は普段と変わらない調子でこともなげに言を紡ぐ。

「そなたのそばにいたいだけだ。春蘭と過ごす時間は、何もせずとも好きだから」

 あまりに素直で正直な言葉に、繕い途中だった布を取り落としかけた。
 瞠目(どうもく)したままその横顔をまじまじと眺める。

「あ、あなたって……近頃、やけにそういうこと言うわよね」

 不意の動揺を誤魔化すべく言いながら布と針を持ち直した。
 今度は煌凌が「?」と首を傾ぐ。

「思ったままを口にしているだけだ」

「だから調子狂うのよ……」

「よいではないか。余の言葉なら」

「……どういう意味?」

「そなたはわたしのもので、わたしはそなたのものだという意味だ」

 彼があえて一人称を変えたお陰で、それが王ではなく煌凌自身の言葉であることを強調していた。
 ふと春蘭は小さく笑う。

「そんな台詞、どこで覚えたの」

「それが夫婦(めおと)というものではないのか?」

「まあ、そうね」

 笑みをたたえながら再び手元に目を落としたとき、耳の横で微かな風が起きた。
 肩のあたりに重みを感じ、いっそう彼の気配が近づいた。
 窺い見やれば、頭を預けるようにもたれかかっており、絹のような黒髪がさらさらとこぼれる。
 目を閉じた彼の長い睫毛が繊細な影を落としていた。
 安心しきったその様子に、空気が穏やかに凪ぐ。

「……寝ちゃうわよ」

「よいのだ。……今夜はここに泊まるから」

「何ですって?」

 危うく聞き流してしまいそうなほど何気なく言われ、春蘭は眉とともに顔をもたげた。

 妾妃(しょうひ)という己の立場と夫婦という関係性はよく自覚しており、帆珠を陥れる一策(いっさく)として王と仲睦まじく接しているのもあえてのことである。
 しかし、こうして呼びつけておいて何だが、夜をともにするつもりまでは持ち合わせていなかった。
 あくまでかりそめの関係であり、いずれは後宮を出ることになるであろうに、無責任にも無節操(むせっそう)にもそこまでは及べない。

「あ、あのね、そこまで夫婦の役割に徹しなくていいわよ。こうして毎晩来てもらってるのは、朔弦さまに言われたことがあるからで────」

「分かってる。……それで構わない」

 聞き終わらないうちに煌凌は言ってのけた。
 春蘭の申し出の裏に何らかの狙いがあることは、とうに承知の上であった。
 そうと分かっていても、本心や情が絡んでおらずとも、必要とされることが嬉しかった。
 ともに過ごせることが嬉しかったのだ。

「春蘭といるときは、王であることを忘れられる」
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