桜花彩麗伝

「どうした」

 ふと黙り込んだ春蘭に尋ねた。
 何か言いたげではあるが、自分の感情と折り合いがつかない様子である。

「……煌凌が言ってたんです。わたしといるときは王であることを忘れられる、って」

 最も心に引っかかっているのは、ほかならぬその発言であった。
 それ以外にも何度か動揺させられはしたが、根底にその言葉が、その気持ちがあるからだとすれば、到底素直に受け止めも受け流せもしない。

「煌凌には王として自立して欲しい。いえ、そうするべきだと思う」

「…………」

「わたしといることで甘えてしまうなら、一緒にはいられません。ましてや妃でなんていられない。目的さえ果たしたら、わたしは後宮を辞して離れるべきでしょうか?」

 蕭家の勢力を退け、王が親政(しんせい)を行う体制が整い、春蘭の力が不要となったそのとき、彼のそばに留まり続けては名君(めいくん)たる道を歩んでいくことの妨げとなりかねない。

 明けない夜がないように、物事には必ず“終わり”が来る。
 彼もいつかは本物の妃を迎えることとなるだろう。
 かりそめの日々が終われば、自分のことも忘れるのが正解なのかもしれない。

「……先のことを(うれ)いていても仕方がない。そもそも目的を果たせるのか、敵も味方も不確実ないま、定かなことなど何もない。現実は流動的なんだ」

 朔弦の淡々とした答えにはどことなく不穏な含みがあるように思え、言い知れぬ胸騒ぎを覚える。
 こと、と彼は蓋碗(がいわん)茶托(ちゃたく)に戻した。

「ただ、一国の王ともあろう者が“平凡”を望むなんて罪だ。これだけは言える」



     ◇



 玉漣殿(ぎょくれんでん)────藤と柳の枝垂(しだ)れる禁苑(きんえん)の、広々とした鏡池には小舟が漂っていた。
 昼夜、(おもむき)深い舟遊びに興じることができるが、いまは乗り手なく浮かんでいる。
 池亭(ちてい)から一望できる禁苑の全貌はまさに絶佳(ぜっか)の景で、閑雅(かんが)風情(ふぜい)(てい)していた。
 淑妃・帆珠の居所(きょしょ)である。

 その一角に佇む彼女は、雰囲気におよそ似つかわしくない憤怒(ふんぬ)の形相で拳を握り締めた。
 連日、王が春蘭の居所に入り浸っているという話を聞き、いても立ってもいられないほどの激情に(さいな)まれる。

「次から次へと手懐(てなづ)け……とんでもない毒婦(どくふ)だな」

 航季もまた、吐き捨てるように嘲笑した。

「これでもし子をなして男児でも産もうものなら、立場は逆転どころじゃ済まないぞ」

「冗談じゃないわ!」

 帆珠は激昂(げきこう)し、顔を赤くして怒り狂う。
 入内(じゅだい)してこの方、まともに王と顔を合わせたこともなく焦りを感じているのも事実であった。
 そんな中、あの憎き鳳姫(ほうき)が何もかもを独占し、優位性を示してきた。
 女官たちの囁いている例の噂は挑発にほかならない。帆珠はわなないた。

 寵愛(ちょうあい)を受け、権力を振りかざし、思うがままに暮らせると思っていたのにこのありさまである。
 これでは、いったい何をしに後宮へ来たのか分かったものではない。
 少なくとも、恥をかくためではなかった。

「……許せない。いまに分からせてやる」
< 451 / 492 >

この作品をシェア

pagetop