桜花彩麗伝
第二十三話
────劇的な夏が瞬く間に過ぎ去り、玻璃国には涼やかな秋が訪れようとしていた。
路傍にしなる枝葉の色がだんだんと青みを失い、澄んだ空が高く晴れ渡っている。
軒車や人々で賑わう往来を抜けた“彼”は、久々の桜州を懐かしくさえ思いながら、例の堂へと歩を進めた。
この四月ほどの間は、俗世から逃れるように楓州へ旅に出ていた。
州都・紅雅にある国最大の規模を誇る学舎で賃仕事に勤しんだり、書画や詩歌、茶といった楓州特有の風流に興じたりしているうち、いくらか波立った心を落ち着けることができた。こうして桜州に戻るほどの余裕も生まれた。
舟で乗り合わせたほかの旅人によると、それは“傷心旅行”と呼ばれるものだという。
実のところ二度と桜州へは戻らないつもりでいたのだが、自身でも意外なことにだんだんと気が変わった。
現実から逃げ続けていることが誰の得にもならないように思え、自ら戻ることを望んだ。
幸いにもいまは、自由にあらゆる選択ができる身の上である。
適当な食糧に加え、楓州の土産を持参の上、堂の敷居を跨いだ。
夢幻はその姿を認めるなり意外そうに目を見張る。
「おや……」
「久しぶりだね、夢幻。ただいま」
「お元気そうで何よりです、光祥」
以前と変わらない親しげで上品な微笑をたたえ、秀麗な青年は腰を下ろした。
────朗らかな語り口で披露された旅の土産話にひと段落がつくと、神妙な沈黙が降りる。
彼が桜州を離れた時期やそれまでの態度を目の当たりにしていれば、その気持ちに気づかない方がおかしいというものであった。
春蘭の現状を伝えるべきか否か、夢幻は刹那迷った。
「……あなたがいらっしゃらない間のことですが」
「ああ、大抵のことは把握してるよ。僕の情報網は伊達じゃないからね」
明るく笑うその表情は一見、平然としていた。
だからというわけではないが、ほんのひと握りの人物しか知らない春蘭の懐妊にまつわる真実は、何となく言いそびれた。
「ひとまず、櫂秦たちは新しい一歩を踏み出せてよかったよ。春蘭もうまくやれてるみたいだし」
「ええ、本当に────。目下気がかりなのは、巷で話題の書でしょうか。光祥はご存知ですか?」
「ん? 知らないな。どんな書なんだ?」
さすがに都の外までは話題が及んでいなかったようであるが、少しく前から民草の間で波紋を広げている一作の小説があった。
題を“胡蝶伝”といい、作者はその名も“無名”。
後宮へ召し上げられた主人公の公女が王の寵愛を受け、権謀術数を巡らせた果てに王妃へと成り上がる物語である。