桜花彩麗伝

 容燕の言葉がいかに的を射ていようと、激しい動揺と焦燥感に心をかき乱されている太后は、冷静に受け止めるだけの余裕を失っていた。

 彼が退殿(たいでん)する頃には釘を刺されたことも忘れ────(いな)、実際には己の焦慮(しょうりょ)を優先し、混乱と怒りに突き動かされた。
 女官を呼びつけた太后は“胡蝶伝”を床に叩きつけると、血眼(ちまなこ)になって命ずる。

「この書を(あらわ)した者を探せ。何がなんでも見つけ出し、妾の目の前に連れてくるのだ!」



     ◇



「なに読んでんの?」

「いま話題の小説よ。“胡蝶伝”っていうんだけど、なかなか衝撃的な内容なのよね」

 書を閉じた春蘭はそのまま櫂秦に差し出した。
 受け取った彼はぱらぱらと中を改め、断片的に物語を掴んだのか顔をしかめる。

「うわー……おっそろしいとこだよな、後宮って。寿命が縮まりそうだぜ」

 清廉潔白で心優しい妃や幼気(いたいけ)な子が、手練手管(てれんてくだ)()けた狐や狸に食われるという救いようのない物語である。
 しかも悪事を働いた者はいかな報いも受けず、さらにのさばる結末なのだから尚さらだ。

「“胡蝶伝”といえば────ご存知ですか? 太后がこの作者を探しているそうです」

「太后が? そりゃまた何でだ?」

「怪しいわね……。何か裏がありそうだわ」

 顔を見合わせた三人の脳裏(のうり)にふと同じ考えが浮かんだ。
 くだんの書がもともと市井(しせい)で話題となっていたことを思うと、宮外での方が情報を得るのに適しているであろう。
 彼であれば、何かを掴んでいるかもしれない。

 帆珠が冷宮送りとなり、太后が余裕を損なっているいま、外へ出る敷居は限りなく低くなった。
 わざわざ芙蓉と成り代わる必要もなく、紫苑と櫂秦を伴った春蘭は堂へ向かった。



 三人が(おとな)うと、そこには夢幻のほかに光祥の姿もあった。
 実に久方ぶりの再会に驚くと同時に、特に春蘭や櫂秦は喜びを(あらわ)にする。

「久しぶりね! もう会えないかと思ってたから嬉しいわ」

 屈託のない純真な笑顔で駆け寄られるが、光祥は困ったような笑みを浮かべた。

「僕もだよ。けど……あんなことを言って消えておいて、またきみの前に戻った僕を笑うか?」

「そんなわけないじゃない。あのとき、すごく寂しかったんだから」

『……もう行くよ。会うのはこれきりだ』

 唐突に突き放されたようで、食い下がることも引き止めることもままならなかった。
 光祥はしかし、永劫(えいごう)の別れをほのめかしただけに少しばかり決まりの悪い心地になる。
 春蘭としてはむしろ、だからこそ尚のこと再び会えたことが嬉しかったわけであるが。

「よお、俺には何も言わずにいなくなったくせに」

 恨みごとを口にした櫂秦が彼の肩に腕を回す。光祥は苦笑した。

「悪かったよ。だけど、きみこそ流浪(るろう)の身だった頃はそうだっただろ? これでお互いさまだ」
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