桜花彩麗伝

「まあな。じゃあそういうことにしといてやるよ」

 そう言った櫂秦が腕をほどくと、光祥は紫苑に目をやる。

「きみも変わりないかい? なんて、ここでこんなふうに聞くのは少し意地悪かな」

「いえ、わたしは……。見くびらないでください。そういつまでも子どもじみてはいません」

 それは春蘭の現状を(かんが)みての言葉なのであろう。紫苑は余裕の笑みを返した。

 溺愛して止まない春蘭が自分のもとを離れ、別の誰かの手に渡ることが、ほかならぬ王の妃として手の届かない存在となっていくことが、自分ではない誰かの愛情で満たされていくことが、紫苑にとっては耐え難い苦痛であると思われているようだ。
 心外である。確かに的外れとは言えないが、そんな時期はとうに越えた。

 光祥と似たような心境ではあったかもしれない。
 しかし、唯一にして最大のちがいは、紫苑の抱く“愛”はあくまで恋心ではないという点であろう。

「そうか、さすがだね。(あなど)って悪かったよ」

 肩をすくめ、くすりと笑った光祥は一度口を噤んだ。
 躊躇うような一拍の間を置き、春蘭に向き直る。

「……でも、安心したよ。王に愛されてるみたいだね。とても大事にされてるって宮外でも噂になってたよ」

 どことなく婉曲的(えんきょくてき)な言い方に一瞬きょとんとしてしまったが、言わんとするところを察すると春蘭は頬を染めた。
 煌凌からの特別な寵愛(ちょうあい)や優遇のみならず、懐妊(かいにん)の話まで聞き及んだのであろう。

「ち、ちがうの。ううん、ちがわないんだけど……それは誤解でね」

 あたふたと実情を説明すると、目を見張った光祥はそれから笑った。

「……なんだ、そうだったのか。ま、大事にしてることは確かだろうけど」

 無頓着(むとんちゃく)を装いはしたが、心のどこかでほっとしてもいた。
 “傷心旅行”を経て吹っ切れたとばかり思っていただけに、内心戸惑ってしまう。いくらか気持ちに整理がついたとはいえ。

「もしかして、夢幻も知ってたのか?」

「ええ、もちろん」

 にこやかな微笑を絶やさず、さも当然かのように言ってのける。光祥は肩をすくめた。

「まったく……言ってくれてもよかったのに」

 ささやかな文句を垂れるも、夢幻は取り合うことなくいっそう笑みを深める。
 とはいえ、ことに心を揺り動かされている場合ではなかった。喫緊(きっきん)の懸念点に向き合わなければ。
 悠々と椅子へ腰を下ろした光祥は、気を取り直して口を開く。

「────さて、それじゃ本題に入ろうか。きみたちがここへ来たのは、例の小説の件だろう?」
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