桜花彩麗伝

 当人らふたりと夢幻を除き、三人は唖然(あぜん)とする。
 “太子”と呼ばれた光祥と男を見比べ、驚愕と混乱に明け暮れてしまう。

 夢幻も少なからず衝撃を受けたものの、先に腑に落ちた部分が大きかった。光祥の(かも)す優れた品格や、互いに覚えていた既視感の正体に対する。
 (いわ)れのない罪で宮廷を追われる前、宋妟は王太子の講師を務めていた。それが当初の面識であった。

「太、子……って?」

 やがて、動揺から立ち直れないまま櫂秦が尋ねる。
 無論その言葉の意味は心得ているが、おおよそ理解が追いつかず、初めて耳にした単語のようにさえ思えた。

 光祥は三人へ向き直る。わずかに躊躇を見せたものの、意を決したように静かに口を開く。

「……いままで黙っていてすまなかった。わたしはもともとこの国の王太子で、今上陛下(きんじょうへいか)の兄にあたる」

「うそ……」

「史実だと言った例の書の通り、一度死んだ身ではあるが」

 いつになく格式張った口調で一人称さえ改めているところに、(しん)に迫った厳粛(げんしゅく)さが漂っていた。
 呆然とする三人を認めると、謹厳(きんげん)な面持ちから一転、柔和(にゅうわ)な微笑をたたえる。いつもと変わらない表情を。

「まさか、このことをきみたちに話す日が来るなんてね」

 一度死した身であるからこそ、過去のすべては忘れ去ったはずであった。
 ────兇手(きょうしゅ)の襲撃に遭い、幼いながらにすべてを失ったあの日から、報復だけを目的に生きてきた。
 欲深い連中の身勝手な野心に何もかもを奪われ、血塗られた日々を必死で生き抜くには、臥薪嘗胆(がしんしょうたん)の思いで残虐な憎悪(ぞうお)を飼い慣らす以外になかった。
 そんな凶暴な復讐心を手折(たお)ってくれた春蘭に、暗澹(あんたん)たる昔話をしようなど、自ら進んでは決して思わなかったはずだ。

「……わたくし、もしや余計なことを申しましたでしょうか」

「いや、潮時だったよ。洪内官、きみこそよく生き延びてくれた」

「太子さま……。かようにご立派になられて────」

 洪内官は言い終わらぬうちに再び涙ぐむ。
 自ずと訪れた沈黙でいささか冷静を取り戻した春蘭は、へたり込むように椅子へ落ちた。

「まさか光祥が太子さまだったなんて……」

「まったくだぜ。元貴族のボンボンだろうとはずっと思ってたけどよ、王族とは誰も思わねぇよ」

「……数々の非礼をお詫びします、太子さま」

 それぞれの反応を受け、屈託(くったく)なく笑った光祥は肩をすくめる。

「いまはただの平凡な男だよ。そう呼ばれる資格もない」

 それに、謝られるほどの非礼など受けていない。
 思い返せば彼だけは最初からどことなく、多かれ少なかれ何ごとかを察している部分があったのではないであろうか。
 そうでなければ、素朴な平民の装いであった自分に対し、丁寧な呼称(こしょう)も言葉遣いもしなかったはずだ。
< 468 / 531 >

この作品をシェア

pagetop