桜花彩麗伝

第二十四話


 すっかり平静を失った太后は夜を徹することもしばしばあり、福寿殿は日に日に混迷(こんめい)を極めていった。
 しかし容燕が手を貸す気配は一向になく、太后自身が自ら事を荒立て、騒動ばかりが助長(じょちょう)されていく状態であった。

 とくと静観(せいかん)していた春蘭であったが、ついに機が熟したことを察するに余りあった。
 “胡蝶伝”を手に、王のいる蒼龍殿へと赴く。

「この書のこと、あなたも知ってる?」

 几案(きあん)書物(しょもつ)を載せ尋ねると、煌凌は頷いた。
 内容のみならず、これが“あの件”────すなわち先の王室で起きた惨劇の全容であることも聞き及んでいる。

「……告発なのであろう。当時を生き延びた何者かによる」

 それが兄である可能性、その期待を捨てきれないまま、しかし煌凌はあくまで平然とそう言った。
 そこまで掴んでいることを、春蘭は少し意外に思いながらも「ええ」と首肯(しゅこう)する。恐らく朔弦などから聞いたのであろう。

「それがね、実は当時の王太子さまに仕えてた内官なの。“無名”って筆名(ひつめい)のその人のことは、いまわたしたちが匿ってる」

 太后や蕭家の魔の手が決して及ばないであろう堂に蔵匿(ぞうとく)し、夢幻とともにその身の安全を保証していた。

「誠か? 内官……?」

「そう。洪内官っていって、襲撃を逃げ延びてた人がいたのよ」

 光祥との約束通り、その存在については決して明言しなかった。
 煌凌は瞠目(どうもく)する。“無名”その人が兄でなかったことには落胆を禁じ得ないが、その切り札が既にこちらの手に落ちていることは喜ぶべき事態にほかならない。
 それに、そもそも兄が生きている可能性を諦めたことは一度もなかった。

「洪内官を証人に立てれば、太后さまの罪を問える」

 春蘭の毅然たる言葉を受け、心臓が音を立てる。
 ────あの頃はあまりに幼く、わけも分からないうちに母の死に立ち会う羽目になった。
 しかし、太后の私欲にまみれた(はかりごと)の犠牲になったのだと、(いわ)れもない罪で汚名を(こうむ)った挙句に殺されたのだと分かったいま、看過(かんか)も許容も到底及ばない。
 ふつふつと湧き上がる怒りが憎しみへと昇華(しょうか)しても、我を失わずに済んでいるのは、王たる自覚と理性が働いたゆえだ。守るべき“大切”がこの手にあるからだ。

 だからこそ、持ち合わせた正当な裁きを下すだけの権限と資格を惜しむわけにはいかない。
 それは寛容なのではなく愚かなだけであると、判断がつくほどには分別(ふんべつ)があった。

「……その者を宮殿へ呼び寄せよう。刑部も錦衣衛も通す必要はない」

「ええ、それがいいと思う。でも、もし太后さまに勘づかれたら────」

 書を(あらわ)した者を血眼(ちまなこ)になって探す太后は、居所(いどころ)を問わず命を狙ってくる可能性がある。
 証人という形で入殿させれば、それだけで警戒と焦燥を煽ることになるであろう。
 薬材事件の折、犠牲となった医女の二の舞になりかねない。
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